ディドロは、自然の中では一切が連鎖していて、「どのような姿かたちにもその原因があるし、ありとあらゆる人びとの中で、当然そうなるはずだというすがたをしていない者は、一人としていない」(ディドロ『絵画について』、岩波文庫 [amazon]、9頁)といい、だから背骨が曲がっている人は、その足を見ただけで「背骨が曲がっている」とわかるのだといっている。

せむしは頭のてっぺんから足の爪先までせむしである。この上なく些末な局部的欠陥も、その肉体/物体の全体へとあまねく影響を及ぼす。この影響は目につかなくなることもある。しかし、だからと言って、それだけ現実のものでなくなるわけではない。(130頁)

こういうことを無視して、シンメトリーや比例などといった美の規則に従って人体をデッサンすることは愚かだ、そういうものを受け入れてしまうのは我々の「怠惰、無経験、無知、そして目の悪さ」だというのがディドロの主張するところである。「目が悪い」といわれれば、それはキリがないことなのだが、逆に考えれば、いくらでも目は良くなるだろうともいえ、とりあえず知覚の深まりをどこかで止めてしまう(諦めてしまう)ことに対しては、警戒を怠ってはいけないと思う。なぜなら止めたところには必ず何か「定義」とか「観念」とかいったストッパーが挟まってくるが、そのようにして挟まってくる定義や観念は十分自覚的に選び取られたものではなく、知覚に対する責任を負っていないに決まっているからだ。
例えば「遠くから人の視線に気づいたりする」といった現象のように、体は知覚しているのに意識することはなかなかできないことというのがまだまだたくさんあるが、少なくとも体で知覚されていることについては、意識しようと思えばできないことはないと思う。最近「気」っていうのも要するに電気の一種なんだという風に教わって、じゃあ生体電気を感知できるようになればいいのかと考えるようになった(何事も信憑性の度合の問題に過ぎない)。見えているのに見ていないことを、見ようとすると、他人と共有しているはずの同じ現実が複層化してくる。そして向かい合って話していても、自分と相手は決して同じ一つの現実を見ているのではなくて、つまり同じ平面上にはいなくて、むしろ異なった面と面が色々な角度で交差し、切り込み合ったり、疎遠になったりしつつ、互いの体を様々に読み合おうとしているのだということがはっきりする。ここでやり取りされ得る情報の総体を知ることはおそらく不可能で、自分が把握し、また摂取している情報と、相手が把握し、また摂取している情報とは必ずしも一致しない。したがって互いに「手」が読めず、ほとんど「超能力」の応酬みたいなことになる。表面上は言葉を使ってやり取りしつつも、実際は重心の位置とか、足の開き具合とか、肩の弛み具合とか、瞬きのタイミングとかを、見ていたりする。もちろん生体電気も、きっとバリバリ感じ合っている。新しい技も刻々と開発される。