金曜はアゴラでパスカル・ランベールの Le Debut de l'A を見た。ランベールはNYにいた時にDTWで Paradis (unfolding time) というパフォーマンスっぽいものを見たことがある。今回のはセリフのある芝居だったが、言葉が可能にする想像力の自由さが、その場からは離れようのない身体の物理的な不自由さと全く対等に絡み合っていて、そこで思ったことは、どうしてダンスは言葉を排除するのだろう、それってある時期までの演劇が身体や上演ではなく戯曲中心に考えられていたのと似ていないか、ということだった。あと役者の背後にずっと字幕(英語に時々仏語が混じる)が出ていて、気になってそればかり読んでしまい、テレビを見ている時に、喋っている人の顔ではなく画面下のテロップを読んでしまうのを思い出した。それで、もしこの字幕がオリジナルだとすると、日本語訳の見事なこなれ具合には驚嘆したのだけれども、訳されていない部分もそれなりにあって、特に le debut de l'a というのは最後の l'a が l'amour と続くことによって「愛の始まり」という風になる一方、二人のセリフの中に時々唐突に mort (死)という単語が紛れ込んでもいて(これは日本語訳ではほぼ消えていた)、つまりどうして l'amour を l'a で切っているのかというと、もしかしてテクストの内容から察するに l'amour と la mort をかけているのか、音としては重ならないのだけれども、こういうのはありなのかどうか。
土曜は初めて静岡のSPACへ行き、イタリアのピッポ・デルボノを見た。前に埼玉の Videodance で初めて見て、別にすごく興味をひかれるというわけではなかったものの昼夜で二作品見られるので出かけてみたのだった。行きは鈍行、帰りは夜行バス。作品は、きわめて率直な、直感というか、センスだけで出来ている感じがして、あまり知的な刺激はなかったけれども、この劇場の方針も含め、社会的な反省のための装置というか場としての劇場なり上演なりといったものの理念が、何だかそんなものに久しく触れていなかったなあと新鮮に感じた。土砂降りの野外劇場で配られたカッパをかぶって見た夜の作品では、演じ手も観客も(チキンレースを超えて)一体感みたいなものが生まれたのだけれども、それは要するに、面白いから見る/面白くないから見ない、といったようなレヴェルのことではなくて、雨に濡れてつらいけどとにかく今はこれを見るんだ、という意地みたいなものだった気がする。こういういわば抽象的な理念が、少なくとも可能性としてはあり得るということは忘れたらダメであるように思う。
日曜は授業の準備。
月曜は桜美林の舞踊論。60年代アメリカのポストモダンダンスと80年代ヨーロッパのヌーヴェルダンスの関係、そして90年代の日本へという流れと、「歴史の終わり」とポストコロニアルバブル崩壊の関連付け。ヴィデオは、ほうほう堂と比べてローザスにおける daily movement がいかに様式的に処理されているかということと、最後にチェルフィッチュの『クーラー』を見てもらった。『クーラー』は、背景にマーラーが流れていて、ロマン主義的な世界の壮大さと、現在の生の些末さが対比されているのだけれども、イヴォンヌ・レイナーの We shall run('63)ではダンサーたちが普段着でひたすら走り、背景にはベルリオーズのレクイエムが流れていた。ただしレイナーの「走る」という動作が日常の中の合目的的な行為であるのに対して、チェルフィッチュのは日常の中の無目的な行為(ノイズ)である点が決定的な違いだろう。授業の後、新宿に寄って『大日本人』を見る。正直、これで「映画」を名乗られたら困るというか、ひたすら内容を受け取るための、説明的な映像の羅列で、この形式の貧弱さは予想を超えていた。ただしCGじゃなくて着ぐるみになる終盤が俄然面白く、つまり『ごっつええ感じ』のあの暴力=笑いの質感に久々に再会できるわけなのだけれども、ということはこれって映画じゃなくてテレビなんじゃないかという身も蓋もない結論に。