センター試験初日。朝8時半から夜7時前までひたすらマシンとなる。ちなみにぼくは大学受験の時にセンター受けてなくて、しかも英語と国語と小論文しかやってない。最後の最後に諦めたのが世界史だったこともありちょっと問題を見てみたが全然わからなかった。まず細かすぎるのが一つ、そして問いの立て方に必然性が感じられないのが大きい。ある事柄についての知識や情報には、普通何らかの「意味」が付随している。問いへ至る文脈というものがあり、したがって推論のプロセスというものがある。だから例えばAとBを比較する際には、比較しようと考える理由というものが存在するはずなのだが、ここを飛ばしていきなりAとE、K、P、Xを比較したりされると、まず焦点は、なぜこれらを比較項として考えるのだろうか、というところに絞られるだろう。つまり出題者の意図というか、設問のコンセプトを推論することになり、だから受験は受験に特化した技術を要求する。「世界史」の問題は、世界史について問う体裁をとりながら、実は同時に、世界史についての試験問題についての問いを問う。いわば下拵え的な教養の詰め込みの段階であるはずなのに、驚くほど詳細な知識・情報が要求されるのは、世界史についての詳細な知識を問うためというより、むしろ試験問題のレトリックの微細さを精密に解読するための因子としてのことであるように思える。つまり知識や情報は、その内容の面で詳細かつ具体的になればなるほど、その機能(意味)の面では抽象的になるのだ。今になってインドネシアやヴェトナムの歴史だの、日本の近現代史だのが面白くて仕方なく、次々に疑問がわいて興味が広がっていくから、何でも動機があって学ぶのなら苦はないのに、と思う。気の毒だが受験生は頑張ってもらいたい。
試験時間が終りに近づいてくると、一通り答え終わった人たちが再確認に入るため、問題用紙をめくる音の頻度が増してくる。空間の中のあちこちからハイファイかつアトランダムに聞こえてくる、紙のめくれる音で、パラジャーノフの『ざくろの色』の、洪水で水浸しになった無数の聖書を屋根の上で天日干しにしているシーンを思い出したりした。
ホテルでTVをつけたら、ビールのCMで小泉今日子が「今日が楽しめない人は、明日も明後日もきっと楽しめないですよね」と言っていて腹が立った。