武術と芸術

メインの「日記」がストイックなパターンになってしまってずいぶん経ち、こうやって好きなことを好きなように書くのがやたら楽しい。数年前と比べるとサイトのアクセスの量もケタ違いだし、見てる人もサイト自体の性格も変わったから、書く内容も変わった。それでもやっぱり、自分の書きたいことと、書きたいけど書けないこと、要するに「プライヴェート」と「パブリック」がちょうどいいバランスになる辺りを押さえて、「読まれてる(かもしれない)」という可能性にさらされるビミョーな場所としてウェブ日記を作りたくなった。最初は「地下」にしようと思っていたけど、やはり「地上」に出すことにした。途中で投げ出してしまうようなことでも、書きながらだと、粘って考え進められるし、書けば残る。残ると、意外なほど積み重なる気がする。

先月出た尼ヶ崎彬『ダンス・クリティーク』(勁草書房)を読了。第二部の四章で、能と武道の関係についての話が出てくる。1月の山田うんのアフタートークで、甲野善紀山田うんが話していたのを思い出した。
あの時思ったのは、甲野氏の動きに山田うんが興味を持つのはわかるが、じゃあ逆に甲野氏は山田うんにどんな関心を持つのかということだ。ダンスを見た感想を聞かれてもあまり具体的な話は出てこなくて、確か「ああ人間というのはこんな形をしていたんだっけ、などということを改めて新鮮に感じたのだが、それはきっと山田さんが瞬間ごとに新しく生まれ変わるような、新鮮な気持ちで動いていたからに違いない」という漠然としたコメントだったように記憶する。ぼくが期待していたのは例えば「あそこからあそこへのこういう動きは不思議な感じだったけどどうやってたんですか」とかそういう話題で、つまり身体技法のレヴェルで武術とダンスの交流が起こったら面白いと思っていたのだ。
しかしどうも、武術に対してダンスは常に片想いなのではないかという気がする。尼ヶ崎氏の記述でも、能が武術から学ぶことはあっても、逆はなさそうだ。両者共通の根として「禅」(精神集中)、「蹴鞠」(腰を据える技法)を挙げる説が紹介されているが、共通点ではなくて双方向的な影響関係はないのだろうか。

芸術と武術の関係をちょっと拡大して考え直してみると、文化は軍事技術の恩恵を蒙っている。ジェット機とかカメラとかインターネットとか。狭義の「芸術」に限ってみても、コンパクトカメラがなかったら写真史はまったく違ったことになっていただろうし、飛行機がなかったらダンス史だって今のようにはなっていないだろう。そこで逆(芸術から軍事への恩恵)を探すと、まずやはり戦争画はじめプロパガンダ芸術などの情報戦略がある。あと迷彩服の模様はキュビズムから生まれているらしい。ラバンのコーラス舞踊とかマスゲームというのもあるが、武術は、白兵戦というかフェイス・トゥ・フェイスな身体レヴェルでの闘いだから集団規模の話は脇に置くとして、甲野氏の技法も情報戦という側面を強く持っている。「ためない」「うねらない」というのは、相手にこちらの動きを予測させないで動くためだったりする。つまり情報を隠す、あるいは偽の情報を流す、ということだ。しかしそれに比べると、ダンスも能も見てなんぼのものだから、言い換えれば情報をアウトプットすることしかしない。もちろん体の中では見かけとは違うことをやっている場合もあるが、その場合だって当然見た目が優位にあるわけだ。武術が「可視的なものを隠し合う」ことを重視するとすれば、芸術は「可視的なものをますますディープに可視化する」ことを重視するといえるかもしれない。
そう考えると、甲野氏がダンスを「見」てあまり饒舌にならないのもわかる気がする。しかしもしかして、一度ダンスをやってみたら違うかもしれない。見た目とは違う、水面下の世界がダンスにもあるだろうし、目に見えない身体技法としての歴史的蓄積があるだろうから(作品や振付家、イデーではなく技術にフォーカスしたダンス史だって書けるはずだ)。つまり問題は、武術家がそれに興味を抱くきっかけがないということではないか。ダンスにおける価値は常に可視的なものに回収されるために、それ自体では兵法としての効果を示すことがほとんどない、ということでは……。ちなみに酔拳は、ダンスの素養抜きでできるのだろうか。