少し書いたのが消えてしまった。書き直す気になれないのでそれについては今日はよす。
また後ろめたい気分で新刊の書棚を見て回った。見ないで過ごすのもまた後ろめたく、板挟みなのだが、書店がすっかり憂鬱な場所になってしまった。
それでも前田英樹の新著『絵画の二十世紀 マチスからジャコメッティまで』(NHKブックス)が出ていたので手にする。四章立てで、題材はマチスピカソジャコメッティ、ルオーなのだが、各章に一人ずつ割り当てているのではなく、「セザンヌからマチスへ」「マチスからピカソへ」「ピカソからジャコメッティへ」「ジャコメッティからルオーへ」という四章。もちろんスタンダードな絵画史であるわけがなく、画家と画家をつなぐところに、むしろそこにこそ、仕事がある。相変わらずカッコいい。
それと黒沢清ほか『映画の授業 映画美学校の教室から』(青土社)。映画美学校の講義から起こしたもので、他に高橋洋塩田明彦万田邦敏たむらまさき(田村正毅、こんな表記に?)、青山真治、臼井勝、筒井武文。いつまでも映画の作り方を書いた本を読んでしまう。
二冊に共通しているのはたぶん絵画なり映画なりへの本質主義的な姿勢だ。今の流行はアイロニカルで行儀のいい社会学だが、たいていの場合彼ら彼女らは自分たちがナイーヴな本質主義の真の残酷さから目を反らしているという事実から目を反らしている。受験産業とカルスタ(産業)は明らかに直結している。遺産の生産的継承ではなく食い潰し。
いま書いている原稿はチェルフィッチュについてで、チェルフィッチュにも前田英樹黒沢清と同種の、「幸福」な本質主義を感じる。本質主義者の「幸福」は決して平和ではなく、むしろ残酷なのだ。