第八日

ダンス・アンブレラのヴァル・ボーン女史はどうも帰国してしまったようだ。ホテルのレストランでも一度見かけたのだが、とうとう話す機会を逸してしまった。今日は昼にプロジェクトに集まって明日のフォーラム前の最終打ち合わせ。みんなすでにお互いのレヴューを読んでいるし、毎日喋っているから、最初に会った時よりずっと相互理解が進んでいる。それにしても例のブロードシートはものすごいスピードで出来上がった。A4の両面コピー一枚とはいえ、締め切り当日の夕方にはアルがどこかで手に入れてきて見せてくれたのだ。ぼくは素材不足を補うためジョゼフ・ナジとデジャ・ドネの他に、日本で見たローザスとジョナサン・バローズのことも書いたが、何しろバローズ初日に劇場で配布が始まったためバローズの部分は削除されてしまった。他の皆もあちこち手が入っていたようだが、ナターシャに至っては掲載自体されなかった。昨日 Avoca でヘレンが「ネットワークのトラブルか何かでナターシャのメールだけ届くのが遅れて載せられなかった」と言っていたが、別刷り(しかもなぜかピンク色)になって配られたのを読んだら本当の理由がわかった。ものすごい毒舌批評だったのだ。ナターシャが政治的に左っぽい人だというのはわかってたが、ジェンダー絡みのPCその他でどの作品もボロクソに叩かれている。文脈次第ではエンターテイメントにもなるし、そういうのなら好きだが、このフェスはアイルランドコンテンポラリー・ダンスを紹介するという啓蒙的な意図で開かれてるので、そう思って見るとだいぶサムい。自己表現にしても大人気ないし、作品の外側から評価基準を持ち込んで粗探しをするのもあまり程度の高いやり方ではないと思った。第二回目の非公式セッションとはいっても、プロジェクトのロビーでイスをかき集めて議論するだけで、リアとぼくが持ってきたヴィデオを上映する機会を設けてくれると言っていたのはスカされた。話題の中心は何といってもナターシャの批評。アテネでは色んな批評が出ているからこういうものも受け入れられる素地があるんだね、という話になる。本当だろうか。ダブリンではまず考えられないだろうし、日本でも考えられないが……ちなみに井筒監督が自腹で映画を見てこき下ろすのはどうして笑えるんだろう。映画というメディアの特性に関係があるように思う。複製されてマスに提供されるということ、集団で制作され、特定の作者の人格があまり明瞭に現われないということ、ライヴではないので好き放題に突き放して転がすことができるということ、そして媒体がTVであるということ。どれもダンスには当てはまらない。振付家でもあるポールは「ぼくらに必要なのは、毒にも薬にもならないようなのじゃなく、こういう批評なんだ」とか正論ぶってナターシャを擁護していたが、むしろナターシャの文体に対する感情的な反発の裏返しのように響いた。ナターシャは弱者を擁護するという左な動機でもって作品に内在する政治的イデオロギーを告発しようとしているわけだが、告発するだけで対案は出さないし、告発が準拠している価値観が素朴すぎるので、かえって保守イデオロギーを反語的に強化してしまいかねない。フェミニズムじゃなくて単なるウーマン・リブなのだ。どうして強者/弱者とか、敵/犠牲者とかの二項対立を設定して「正義の戦争」に訴えようとするのか、どうして「敵の敵」に成り果てることなく、二項対立の基盤を探り出して崩落させるような、オルタナティヴな視点を提供しようと試みないのかとケンカを仕掛けてみた。その方が批評の方もテクストとして面白くなるはずだし、何よりダンスに対してクリエイティヴに貢献できる。ナターシャは「いつもこういうことを書いているわけじゃない、場所を選んで書いている」と言うが、それならこんなところでこんなもの書く理由なんかないだろう。ヘレンはぼくの主張に共感を示してはくれたが、「それってすごくタイヘンな仕事だけど」と言い、続けて「(アーティストに対して)優しいよね」などと付け加えた。アーティストに優しいか辛辣か、そんなこと全くどうでもいい。この人たちは批評というものの社会的な役割を「世俗的」にしか議論できないのだろうか。まあテクニックとアイディアとセンスしか要らないヨーロッパのダンスばかり見ていれば、何も批評がクリエイティヴになる必要などないのかもしれない。ダンスとは何か?などとは考えもしないだろうから。だからヨーロッパのダンスつまんないんだよ、とまで言ったが、ヴィデオを見せることもできないし、ちょっと話したぐらいじゃ埒は明かない。結局明日はパネル・ディスカッションではなく、アルとコンスタンツェとポールが各地域代表として簡単なスピーチをして、後はフロアに開放したフリー・トークということになった。非常に不満だがアルはぼくよりずっと英語が堪能だし、明日もヴィデオは無理らしいので仕方ない。非公式セッションは二時間ほどで終わり。今晩はマウントジョイ女性刑務所でパフォーマンスがある。夕方コンスタンツェとナターシャとリアとぼくの四人でタクシーに乗り移動。アルは一日早く帰国する予定なので今日は別の公演に行った。まさかダブリンまで来て刑務所へ行くことになるとは思わなかったが、門を開けてもらって、宇宙船のような電子制御の扉を抜け、中庭とグラウンドを通って体育館のような別棟へ入る。観客は刑務者の家族とかが多いらしく、劇場で見かけたような人々はほとんど来ていない。中身自体はお遊戯みたいなものだが、振付家パット・グラニーの仕事には非常に感銘を受けた。刑務者の女性たちの生き方について色々考えさせられる。ポスト・パフォーマンス・トークも盛り上がり、そのままヴィジター用のカフェに移動して懇親会。一種のソーシャル・ワーカーのような仕事をしている老婦人と一緒にテーブルを囲んで色々話を聞いた。しばらくすると出演者たちも入ってきて、家族らと話している。建物から中庭へ出た途端、出演者たちがズラッと並んでタバコを吸っているのに出くわした。一瞬「怖い」と思った。その自分の感情にまた自分で反応してしまい、さらにその反応について考えてしまう。そういう反省的な思考を駆り立てるという点で非常に優れた企画だと思う。この点、帰りの車中でコンスタンツェと意見が一致した。彼女とはおそらく一番趣味というかスタンスが合う。デジャ・ドネの時もダンスダンスした大袈裟な振付のことをバカにしていたし、話だけ聞いていると手塚夏子みたいなダンサーのことを強力にプッシュしていて、イイ感じだ。アルが明日で最後なので、また Ciao Bella でお別れ会をすることになった。
テンプルバー Templebar という賑やかな地区のパブ。ごった返している。店の看板は英語とアイルランド語ゲール語)の両方で書かれている。

Botticelli で待ち合わせている間、ナターシャと「映画は字幕と吹替えのどちらがいいか」について議論になる。ナターシャはやっぱり「オリジナル」を重視したがるので、絶対に字幕だといって譲らない。ぼくも昔はそう思っていたが、今は必ずしも字幕版が「オリジナル」だとは思っていない。耳からセリフが入ってくる、字幕を追わずに画面に意識を集中できる、など吹替え版にも大きなメリットがある。ナターシャの「オリジナル」(=単一起源)信仰を批判するために、ぼくは日本でクリント・イーストウッド山田康雄の声と一体化している例を挙げて「クリント・イーストウッド」なるものの複数化を主張してみたのだが、理解してもらえなかった。アルは滞在中なぜかずっと倹約をしていたから、夕食を一緒にするのもこれが最初で最後だ。大変なお喋りなので店の人ともすぐ丁々発止になる。またナターシャの質問攻めが始まり、タイの気候はどうなのかと聞くと、タイには二つしか季節がないのだという。「一つは暑い季節」。あとは?と聞くと「もっと暑い季節!」と返ってきた。hot and hotter! すごい。傑作だ。