メモ

今日は金森穣を見てきた。振付家としての印象は『ノマディック〜』の時と同じ。すごく巧くて、オリジナリティはない。今回はオオッという演出もなかったけど、単純にダンスとしてみたら後半は文句なく楽しい。
前半は観客が立って歩き回りながら見る同時多発ダンスだったのだけど、こういう姿勢だと集中力が格段に落ちる。それは何も他の観客の頭がジャマとかそういうことじゃなくて、自分の体のノイズが多すぎるということなのだ。立って歩いている、あるいはちょっと立ち止まって人の頭の間とか壁の穴からのぞいている、こういう状態の体は当然大量の情報を脳に送ってくるわけで、それだけそっちに神経が行ってしまえば人の体のことに集中してなどいられない。
ぼくは美術館とかもあまり好きじゃなく、これもやはり立ったままじっくり見るのが苦手という理由からなのだが、その内実が今日やっとわかった。集中力、ということ、あるいは何かをじっくり見るのに必要な、「落ち着く」ということの内実はこれだ。自分の体のノイズを低減すること。わかってみると大したことじゃないような気もするが。
しかしダンスの場合、美術館と違うのは、相手と自分の間に一種の鏡のような関係が生まれて、踊っている人の体と見ている自分の体が重なっていくというところだ。だからこうやって至近距離でガンガン踊られると、何となく自分の歩くスピードとかリズムとか全身の力み具合とかが影響を受ける*1。しかしそれってちょっとダサいことでもあって、なぜかというと中途半端だから。フォークダンスなどのように全く対等な関係で踊ってしまうのならそれはいいかもしれない。そうじゃなきゃ座ってじっくり見ていた方がいい。それぞれに違う種類の集中力が作動し、見えるもの感じるものは違うだろうけど、それぞれに深いことに変わりはない*2。座るか、一緒に踊るか。どっちかであって、中間はナシ、じゃなかろうか。あるいはあえて中間を探したら面白いダンスができるかもしれない。見ている状態と踊っている状態の中間みたいなあやふやな状態を観客に引き起こすダンス。それはダンス自体も、踊っているんだか踊っていないんだかあやふやなものになるのだろうか。
中途半端になってダサいのは振付・ダンスの種類にも関係があるだろう。全然ムリなのに雰囲気だけ乗り移ってしまうのはやはりダサダサだ。その点やはり「立ち歩き」システムだったというチェルフィッチュの神戸公演はどうだったのだろう。ああいうので一度体験してみたい*3

*1:そういえばぼくは昔から、人がお辞儀をするのを見ると何となく自分も少し首を傾けてしまっているような気がして心配になる。本当に首が動いているかどうかはいまだに確認できていない。

*2:両者の間に優劣はないと思うが、踊らない人が踊り始めることはできても、一度踊ってしまった人が踊らない人の感覚を取り戻すことはできないのではないかと思うと、簡単に行き来できるものでもない気はする。

*3:また逸れるが学校における子供の「立ち歩き」っていうのは凄いことだと思う。「座っている」がデフォルトなのに「立ち」、しかも「歩く」のだから。先生の言ってることに関心ゼロである。ということは「立ち歩き」システムのダンスはそれに近い状態を前提としているのだし、美術館は「立ち歩き」を強要しながら「見ろ」と言っているようなものだ。