OSMD, CKB, JCDN

先日NHKで見たコスタリカオナガセアオマイコドリ(尾が長く背が青い舞妓のような鳥)は、スズメ目マイコドリ科の内の一つで、大きさはスズメよりも一回り小さい。求愛ダンスが変わっていて、1羽のメスに対して2羽のオスが共同で踊る。森の中に「踊り場」というのが作られていて、そこへメスが見に来るというシステムからして妙に生々しいのだが、2羽のオスはその踊り場(地面とほぼ平行に、枝が真一文字に張ってある)の上で、メスの方を向いて並び、初めは声を合わせてさえずる。やがておもむろに一方がジャンプして、軽く空中でホヴァリングした後、そのままバックし、その下をもう片方がくぐって前に出てきて、先に飛んだ方はこいつの後ろに着地、前に出た方がまた同じようにジャンプしてホヴァリング、というのをグルグル繰り返す。メスはそれをジッと見ている。ほとんど観覧車みたいになっているオスたちの回転は加速していき、ジャンプとホヴァリングの高度が低くなって、掠り気味になりながらガンガン入れ代わっていく。それでもう限界まで行ったところで、一方がメスの目の前に飛び出して脳天の赤い羽毛を見せつけ、間合い的にOKな雰囲気だとメスの上に乗ってチョンとやってしまう。鳥の交尾なんて本当にチョン、である。何でこんな手の込んだことをしているのかは謎だが、この2羽の間の関係はどうも師匠と弟子になっているらしく、ダンスは常に師匠がリードする。先に鳴き声をあげるのも、ジャンプをするのも師匠。あとご丁寧にも、1ターンごとに枝に対して右向き、左向きと交互に着地するのだが、これをリードするのも師匠。というか主役は師匠であって、プロポーズを弟子が抜け駆けすると怒って追い払ってしまうから、原則としてメスに対するライヴァル関係はない。若いオスが師匠のところに習いに来て、弟子は技を教えてもらい師匠は引き立て役を手に入れる、ということらしい。確かにソロよりデュオの方が派手で目立つ。
この手の、生まれた後に習って鍛えないといけないタイプの「習性」というのは「本能」とどういう関係にあるんだろう。基本は遺伝子レヴェルで刷り込まれていて、それを使いこなす力は経験に依存するということか。人間の場合だと言語能力は遺伝子レヴェルで、特定の言語を使いこなすのは後天的な能力なわけだけど、そんなものかな。
デュオといえば最近出た浅野素女『踊りませんか? ――社交ダンスの世界』(集英社新書)というのを読み始めた。まだ四分の一くらいしか読んでないが、これは面白い本だと思う。踊る身体同士の関係のことを軽いエッセイ調で書いてあるのだが、こういう話はバレエではできても、それ以降のアート文脈ではあまり出てこない。コンタクト・インプロが特別扱いされるくらいだから、踊る身体同士の絡みというのは案外深められていないのかもしれない。
クレイジーケンバンドの新譜『Brown Metallic』は、ちょっと期待はずれ気味。過去のネタの使い回しが露骨すぎるのと、何より歌詞がつまらない。横山剣にも説明とか描写中心の曲はあるけど、それはあくまで箸休め的な存在であって、今回はどの曲も笑えない。『あぶく』なんて素晴らしいタイトルの曲も中身はすごく大人しいシリアス路線。どこかのインタヴューで「今回はメロディとグルーヴで語りたいことは全部語ってしまった」と言っていたけど、やっぱり歌詞が走ってくれないと間が抜けてしまう。今のところ気に入っているのは2曲目の『ロサンゼルスの中華街』と17曲目の『木彫りの龍』*1
それから今年もJCDN「踊りに行くぜ!!」の選考会が各地で始まっているのだけど、東京の参加者の面子が大変なことになっている。高野美和子、岡本真理子、鹿島聖子、白井剛、たかぎまゆ、松本大樹、三浦宏之とかこんな感じ。ややマニアック気味なファンなら一度くらい見たことのある人ばっかりで、もっと大きいコンペとかに出ている人も結構いる。ヴィデオ審査にかかった数も東京は49件と圧倒的に激戦区なので、当然ながらこの段階で落ちてしまった人々の水準もそれなりに高いのだろう。
JCDNの理念からすればまず「地域格差の解消」というのがあると思うが、脱東京中心主義を謳って、非東京地域のダンスを掘り起こそうという意図はひとまず理解できる。しかしそれによって各地域、とりわけ東京という地域をその境界線で囲い込み、その中に小さいピラミッドを新しく作り出してしまったのでは意味がない。しかもこれじゃ結局「東京から来ている人はやっぱりレヴェルが違う」ということにもなりかねないし、少なくとも知名度やキャリアではいかにも「東京」ブランドを振りかざす結果に陥ってしまうだろうから、全国規模での底上げはできても東京中心の構図は温存されると思う。
もちろん杓子定規な平等主義が良いということではなくて、様々な地域から出てくる表現の、本質的には共約不可能な多様性を取り上げていくことで、価値観に特定の中心を作らないような方向へ持っていくべきだろう。そのためには、せめてもう少し戦略的な人選をすべきだ。確かに白井剛も高野美和子もオルタナティヴなことをやっているけれども、存在自体はもうオルタナティヴではない(ある程度認知されている)。東京でも、他地域と同じように、それこそ誰も知らないような人を掘り出してくるべきだと思う。だいたい応募する方も何を考えているのかよくわからない。いい加減、企画に乗っかってばかりいないで自主公演を打てばいいじゃないかと思う。

*1:これも途中から『まっぴらロック』になってしまう。