昼から夜

昼は成城大学美学会の例会。赤塚健太郎氏の発表は、バロック音楽の奏法の中にバロック舞踏の身体運動感覚との共通項を求めようとするもの。緻密な検証だった。プリエ→エルヴェ→均衡ポジション、という極端にシンプルな動きを分析対象にしているのだが、こんな風に細かく切り取って見ていけば体の動きもかなり厳密に考察できる。超クロースアップでじっくり見ていく、ということを自分でも色々試してみたくなった。
豪徳寺から世田谷線三軒茶屋へ。世田谷線は初めて乗った。シアター「トラム」ってこれのことだった。J(マレーシア/NY、振付家)と落ち合って少しお茶する。日本のダンスについての見解を交換し、というか聞かれ、刺激になった。ふだん説明しなくても暗黙の了解になっていることとか、わかったつもりになっていることを「外部」の人に説明する必要に迫られると、もはや自分の口から出てくる言葉が自分にとって新鮮だったりする。考え込む前に即興的な対応へと急き立てられること、これが会話の良さだろうと思う。
それで、日本のダンスの振付家は、ユニークさ(自分の体に対して実直であること)を重視するけれどもオリジナリティ(独創性)は必ずしも十分意識していない、という話になったのだった。この意味における「ユニークさ」への姿勢はやはり舞踏の遺産といっていいと思うけれども、それがそのまま自己満足のための言い訳に堕して、表現としての説得力を欠く結果につながってしまっている面もある。「やりたいからやる」とか「出てきちゃうから出す」という類のナイーヴな衝動から、それを相対化しつつ表現としての強度を高めるところまでいかないのだ。その原因の一端として、振付家が他の人の作品を見ていないということがあると思う。これはJも今回の滞在で実感すると言っていたが、日本の振付家はお金がないし、生活のための仕事で忙しいから、知り合いの舞台は見るけれどもその他まで手が回らない。このことをぼくは「ダンス史への無自覚」と考える。「ダンス史」というのは大仰な表現でいかにも嫌われそうなのだが、何もいきなり20年単位、50年単位の話ではなくて、単に2004年の上半期にどんなダンスが出たか、先月は何が重要で何がそうでなかったか、例えばこんな話ができそうな程度にしばしば客席で見かける振付家がほとんど思い当たらない、というのはちょっとおかしくないかということが言いたい*1。「歴史」というのはこういう一日一日の積み重ねに過ぎず、しかし、だからやはり一日一日は「歴史」なのだし、人の作品を見ないということは「歴史」から降りるということであり、「歴史」から降りるということはふだん色々な他のダンスを見ている人々の視線に対して無防備なままでいることを意味する。例えば振付家が組合を作って、組合員は他の組合員の公演をタダ(あるいは超低料金)で見られるようにしたらどうか、とか考えた。
トヨタアワード初日は今年も盛況だった。オーディエンス賞は矢内原美邦に入れた。この人は明らかに過小評価されている。あと郄野美和子が著しく伸びてきていた。まだちょっと弱いけど、今後要チェックな感じ。終演後は大所帯で少し飲んで喋る。今までお顔とお名前が一致していなかった批評家のSさんと初めて話した。しかし〆切がまた堆積しそうな予感なので早めに中座。明日は手塚夏子とトヨタのハシゴだ。

*1:ダンスばかり見ているとどんどん内輪に篭って、外からはわからないような瑣末な差異の戯れになってしまう、という反論も可能だが、ダンスを沢山見ることとダンス一辺倒になってしまうこととは同じではない。