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今日は『兵隊やくざ』('65、増村保造監督)を見た。この時期の日本映画特有のスッとぼけた「ユーモラス」系の音楽がちょっと苦手だが、乱闘シーンが多くて良かった。多いどころか乱闘シーンとそれ以外で構成されているような、しかも敵とは一切闘わずに隊内部でケンカばかりやっているという映画*1。長い連続ビンタは『その男、凶暴につき』のトイレのシーンを髣髴とさせたが、一打一打が振り子運動のように連続しているため、数打でワンセット。一打一打の間に間(ま)をタメて、次もあるのかどうかという不安感を常に維持するたけしはやはりエラい。もちろん勝新はビンタぐらいじゃビクともしない。浪花節も聞ける。たぶん一番好きな役者*2。この人は時代劇の殺陣も肉弾戦みたいでイイのだが、やっぱり殴ったり投げ飛ばしたりする動きの方が似合う。圧巻は風呂場で炊事班を全滅させるシーン。コントラストの強い画面に裸の男がたくさんゴロゴロ倒れてサシャ・ヴァルツみたいになる。筋書きは全体に弱い。大卒のインテリ上等兵田村高廣がやくざ上がりの一年兵=勝新に惹かれてコンビになるのだが、ホモっぽさが薄すぎる。
ユクスキュルの『生物から見た世界』はだいたい読んだ。知識として新鮮というより、この時代の動物行動学者がどんなこと考えていたのかが色々見えて面白かった。ウケたのは「反射共和国(Reflexrepublik)」。ウニには普通のトゲと、管足っていう柔らかい触手みたいなのと、その他に4種類のトゲがあり、これらはすべて殻全体に均等に分布して、それぞれが独立の反射回路をもっているのだが、にもかかわらず互いに邪魔をしたり傷つけあったりすることがない。皮膚の表面に分泌されている特殊な物質のおかげでぶつかり合うのを避けられるらしく、その「平和」を指して「反射共和国」。基本的にユクスキュルの動機は機械論への反論なんだけど、「自然の技術」を実体的に想定して満足してしまうあたり思想的には機械論からそれほど遠くない気もする。多様な生物がそれぞれの環境世界や、他の生物との間で知覚(Merken)と働きかけ(Wirken)を介して「対位法」を奏でているとか、自然が音楽の比喩で説明される。伝統的なドイツの知識人だ。アドルノの「構造的聴取」を思わせるくだりまであった。それはさておき最も含蓄に富む一節。「あるいは、こういってもよいだろう。ある動物がなしうる行為の数だけ、その動物は自分の環境世界内において対象物を区別することができる。なしうる行為が少なくて、少ししか作用像をもたないならば、その動物の環境世界もまた少数の対象物から成り立っているのであると。このような環境世界は、貧しくはあるが、しかしそれだけ確実なものとなっている」(85頁)。
ここから「人間」を切り出してくるやり方にはいくつかパターンがあるが、ぼくはこれとダンスをつなげたいとずっと思っていて、「人間」論ではダンスはどうしても語りにくいところがある。日曜に水戸駅のホームで電車を待っていたとき、ものすごい動物な兄ちゃんがいて、彼はいわゆるヤンキーともちょっと違い、青の甚平を着てサンダルで、床に座って脚の間にたくさん唾を吐いており、ほとんど寝たきり老人に匹敵する勢いだったのだが、ようやく電車が来るとなった時に、彼は立ち上がってだるそうに一人でパラパラをやっていたのだった。パラパラがまだ残っていたということ自体驚きだが、あそこまで「貧しい」環境世界に充足してしまう人も、極度の暇に直面すると踊るのだ。これは「企投」とも「自己意識」ともダイレクトに関係あるようには思われない。単に何らかの抑圧から「解放」されようとしてではなく、「意味」が飽和してしまった状況下において目的連関に従属した動きの体系とは異なる体系を自力で立ち上げてしまっているわけで、こういうのを見るとダンスを単なるアナーキーな衝動とか「解放」の象徴と見なす伝統的な立場がいかに一面的で、いわば解釈過剰なものであるかがわかる。重要なのは、ダンスの動きが目的連関や抑圧的な規則から逸脱して「自由」を獲得するということではなくて、ある状況下での動きの規則とは異なる動きの規則との間の「差」(差異)、それ自体なのではないか。そもそもダンスにおいてさえ、動きとは時間や空間における「差」(差異)のことをいうのだ。

*1:軍隊のこういう表象って昔から国を問わずあるが、平時からそんなに体力を消耗したり怪我したりしていていいのだろうかと文科系のぼくなどは不思議に思ってしまう。暴力のウォーミングアップということなのだろうか。

*2:二番目に好きな成田三樹夫はチョイ役で一瞬だけ出た。続編シリーズではもっと活躍するらしい。