映画を見るたびにダンスのことを

ガツガツ読書をする。今読んでる本は、ここに書名をあげることが恥ずかしくないのかどうかまだ見極めがつかない。役には立っている。
映画は『ドレミファ娘の血は騒ぐ』('85、黒沢清監督)を見た。初めて見た。出だしの方はてっきり学生映画なのかと思ったが、ちゃんとした商業映画として作られ、完成後オクラ入りになって、後から手を入れたものだと知って少しばかり驚く。耐えられないくらいただの学生映画な部分と、学生映画が見る夢を本当に実現してしまっている部分とがまだらに混在している気がする。終盤の草むらの移動撮影による意味不明な撃ち合いらしきシーンは非常にグッと来るものがあった。何が起こってるのかわからないこの画面は、この映画を撮った後の黒沢清にも連綿と受け継がれているし、この映画が撮られる前の映画史の中にも潜在しまくっている。そういうことを確かめられただけで満足した。
id:mmmmmmmm:20040703で書いた、今のダンスにおける「ダンス史への無自覚」ということについて付け足すと(というか、似たようなことを少し違う角度から書き直すと)、ダンスが映画と本質的に違ってしまうのは、過去の作品を見ることができないという点だ。作り手も、観客も見ることができない。映画は、その日までのすべての映画が歴史として累積している、そのような環境の中で撮られ、見られる(または見られることを前提にして撮られ、撮られることを前提にして見られる)。しかしダンスの作り手も観客も、その持てる歴史的蓄積のスパンは尋常ではなく限られている。映画の場合のように、新作を50年代のアメリカ映画や、30年代の日本映画と比較することは非常に難しい。きわめて短い歴史的スパンの中で、その時に可能な限りのものが作られ、その時に可能な限りの仕方で解釈され、評価されたりする。これをどう考えるかだ。
映画を見た後、何となく『映画はおそろしい』を取り出して、最後に入っている書下ろしのエッセイ『人間なんかこわくない』を読んだ。「先日ポール・バーホーベンの『インビジブル』を観て心洗われた。何かと言うと、主人公ケビン・ベーコンのキャラクターの薄さにである。(・・・)ただ天才ですけべだという以外ほとんど何もない人間として設定されているところに私ははっとなったのだ。天才であるがゆえに社会に馴染めず孤独であるとか、病的なすけべとモラルとのあいだで引き裂かれるとかいった主題を前にして、バーホーベンはこれにひょいと背を向ける。これがクローネンバーグだったら、まだ普通の人という曖昧な仮面をかぶせて、際立った性格を隠蔽するくらいの気遣いを持ってもいようし、カーペンターだったらその人物の意匠を頑固なまでに映画史的正統性で裏打ちするだろう。しかし、天衣無縫のオランダ人バーホーベンが主人公に許したキャラクターは、ただもう明快に天才とすけべの二本立てで突っ走ることであった。だからベーコンが透明になって街に出、まっ先にやったことは隣の美女の裸をのぞくことであり、研究室の同僚の女性は女子トイレに坐ったとたんたちまち不安になる。面白い。このドラマには愛もなければ復讐もなく、高橋洋いわく「ふるちんの男が大暴れする」というまことに潔い物語が延々と展開されるだけなのだ」。ぼくはいわゆる映画評論とかそういうものには疎く、ほとんど読んでいないのだけれど、最近この辺の偉大なる人々からだいぶ勇気をもらった。ポール・ヴァーホーヴェンがこんなに評価されていたりするのは、『ロボコップ』のED-209がオムニ社の会議室で誤作動を起こし社員を撃ち殺しまくるシーンや、『トータル・リコール』でマイケル・アイアンサイドシュワルツェネッガーを追ってエスカレーターを駆け上がりながら銃を乱射して通行人がバタバタ死ぬのに感動していたファンとしてはたまらないものがあり、また何といっても黒沢清が『エクソシスト3』をフリードキンの1よりも推すとかいっているのを見た時はもう飛び上がって喜んだ。