徒歩

今日は千駄木でダンスを見て、そのまま湯島まで歩いた。簡単なルートのはずだったのに、お茶する場所を探しながら歩いたせいもあり、やはり強力な方向音痴が発動して道に迷い、一時間以上も歩き回ってしまった。本郷や湯島の辺りは、土曜ともなると店がみんな閉まっている。しかし歩き回ったおかげで地理感覚が強化された。千駄木、根津、湯島、上野、本郷、御茶ノ水、この辺りの位置関係がよくつかめた。思っていたのとは微妙に違っていたりする。
歩くと本当に土地勘ができる。歩いてみて初めて、こことここがつながっているとか、そういうことがわかる。人は一つの地図であちこち移動しているのではなくて、必要に応じてスケールと網目の違ういくつもの地図を使い分けている。歩くことによって徒歩版の地図が形成され、地下鉄版やバス版の地図の網目の隙間が埋められていく。
帰りの電車で、登山帰りの夫婦を見た。好き好んで山に登る人の心の内など少しも理解できないが、電車の中でこういう人を見るときほど、登山の何たるかを実感することはない。なぜなら、彼ら彼女らは山までは電車で効率よく楽に移動するのに、山はわざわざ足で登るのだ。ぼくなどは、そんなに歩きたいなら電車など使わずに山までも歩いたらいいのではないかと思うが、そうではない。山を歩くことに意味がある。ぼくも山自体は嫌いではないが、山歩きが山をよく見せてくれるとはどうしても思えない。いやきっと、体力のある人が、苦労して歩く中で初めて見える山の良さというものがあるのだろう。おそらくぼくは、それを一生知らないままで終わる。