スペイン

スパイラルで笠井叡見る。何かこう、コンセプトそのものにパンチが足りないような気がした。
すぐ神楽坂に移動。少し時間があるので本屋で立ち読みする。この店はマイナーな新刊をちゃんと入れてるので行く度に端から端までチェックする。『芸術新潮』9月号はスペイン特集で、それはもう素晴らしい写真がこれでもかというほど載っていてなかば呆然としながらページを繰った。ヴィクトル・エリセのインタヴューも出ている*1。そういえばスパイラル開演前にお茶した写真家Oさんもスペイン・フリークで、年に何回か出かけて撮影している。
こういう写真を見るとついそこへ行ってみたくなってしまうが、もちろん行ってもダメなのだ。行って写真を撮ったら、あるいは良い写真が撮れるかもしれないが、撮らなければ、行っても裸眼では「写真のような風景」には出会えない。写真を見るとき、つい実在の風景を捉えた像を見ているというアタマでものを考えてしまうが、結局は実在しない「場所」を想像させられてしまっている。実際にある空間に身を置いているとき、視点やフォーカスはとめどなく動き続け、その結果か原因かわからないが、空間は三次元で、常に無限の広がりを持つ。いくら見ても見ても、視点とフォーカスを固定しなければキリがない。しかしそうかといって視点とフォーカスを固定してみたところで、たとえどんな小さな点を注視してみようと、その周囲に広がっているぼやけた空間にフォーカスが行こうとしてグラグラさまよってしまう。だから、どうやっても視線はどこかに到達して停止するということがない。ところが写真は、三次元の空間を厳格なフレームでもって平面的な光の集積へと置き換える。無限なものを有限なものとして記号化する。やはり結局何が一番重要かというと、フレームだ。フレームによって、その外を切り落として、内側の全体を「像」として取りまとめることができる。取りまとめられたものが一つの記号になって、「〜を見る」「〜を見た」という(限りなく疑わしい、あるいは少なくとも、制度化された)構文を成立させる*2
こんなことを考えていたらなおさらこの写真たちが貴重に思えてきて、すごく迷ったが結局あきらめた。お金がない。あとアガンベンの『開かれ』の邦訳が出ていた。これはずっと前に原著が出てすぐ買って、訳が出る前に読んでやろうと思ってたのだが、手を付ける前に出てしまった。元は100頁もないペラペラの小冊子なのに、どうしてあんな大袈裟な本になってしまうのだろう。
神楽坂die pratzeではイオアンナ・ガラゴーニの作品を見る。Yからアスベスト館関係の人だということを教わった。テクニカルとマジでモメて完徹明けらしく、出演者(日本人のダンサー多数)も脱退者が出たり、通訳がいなかったり、大変だったようだ。しかしそういうこと抜きにしても、あまり見るべきところのあるアーティストとは思えなかった。

*1:10年に一本しか撮らないとよく言われるが、ふだんどうやって生活しているのだろう。『ミツバチのささやき』'73年、『エル・スール』'82年、『マルメロの陽光』'92年。そして『10ミニッツ・オールダー』に入ってる短編が'02年ということは、まさか次はあと8年後なのか?

*2:空間の表象ということに限っていえばこうなる。モノの表象ということになると、フレームの代わりに意味とか概念とかが同様の機能をするだろう。いずれにしても記号化抜きで何かを見るということは人間にはできないように思える。いや「見る」ということが「記号化する」ということなのだろうか?