幽霊

呪怨2』('03、清水崇監督)見る。映画版の2。今までどうもこの監督の面白さがわからなかったのだが、これは凄かった。時間軸のトリッキーな操作が、映画内部でのオカルト現象そのものになってしまう新山千春のパートは痛快だし、ラストの酒井法子の出産シーンの惨劇演出も相当にいい。ネタ自体はラース・フォン・トリアーのパクリなのだが、無防備な産婦が100%頼りにしているところの医師たちが、眼の前の出来事に恐れおののき、手術室の壁にへばりついてガクガク震えているのだ。ああ怖い。そして現実と幻の間を「夢オチ」やさらにはPV風の好き勝手な飛躍でもって何度も何度も往復し、挙句にどっちが現実なんだかわからなくなる市川由衣のパートなんかはちょっと凄いんではないかと思う。結局どっちも市川由衣にとっての「現実」ということになって、するとカメラは限りなく純粋な「主観」に近づいていき、その擬似的な「主観」体験がフィルムの表面そのものとあられもなく一致して、因果関係や辻褄の破綻が「映画」の名の下に全肯定される*1
清水崇の映画はさりげなく画面に何か忍び込ませてあるので、つい色んなところをチェックしてしまうのだが、この感覚って心霊写真だよなと以前から思っていた。そうしたらまさに心霊写真そのもののようなショットが出てきて、そのことがまた映画というものへのラディカルな挑発になっていて興奮した。
だいたい幽霊って何で出てくるんだろうと思う。直接手を下して恨みを晴らすのならわかるけど、たいていの場合はただ「いる」だけだったりする。純然たる「現われ」であって、それを見てしまった人は色んな理由で怖がるけれども、幽霊の側としてはそんな可視性だけに全存在が賭けられている。phantom にしろ、apparition にしろ、皆「見える」ということにまつわる意味の言葉だ*2。とにかく「現われ」て、「い」て、誰かに「見られ」るだけの存在……もちろんダンスのことを連想してしまうわけだけど。

*1:「主観」という形を借りて、実はフィルムやカメラという超越的な「表層」が限界まで迫り出してくる。ここを見ながらチェルフィッチュの芝居を思い出していて、演劇には映画におけるフィルムに相当するような超越的「表層」があるのだろうか、あるとしたらそれはどんなものか、ということを考えた。

*2:ちなみに ghost は Geist(精神) と関係があるらしい。