何だか

昨日のキーボードに続き、今日はマウスのホイールの滑りが悪くなってきた問題の解決を試みた。分解してサラダ油を注してみる。グリスじゃないのでいつまでもつか知らないがまあ快適になった。
『学生ロマンス 若き日』('29、小津安二郎監督)見る。結構、煙突が望遠で写されるし、人物は斜め後ろを向いていたりした。
イギリスでキツネ狩り禁止法がとうとう可決になったようだ。ずっと前からもめていたのに最近音沙汰がないなと思っていたけど、いきなりあの騒ぎには驚いた。動物愛護団体とかのヒステリーなら見慣れているが、あれはちょっと珍しいというか、異様な感じがする。「殺すな」じゃなくて「殺させろ」なんて、普通表立って言えない。イギリスのキツネ狩りは結局、スポーツしたい貴族と、害獣を駆除してもらえる農民の利害関係がかなり平和に一致して、しかもそこへ馬とか犬とか、猟銃とか馬具とか、そういうもの一切で一つの小さい産業/市場が形成されていて、それゆえの反発があれなのだろうと推測する。農村の事情も知らないくせに、都会の人間が感情だけで口を挟むな、と。
日本では『建築美学』が翻訳されて知られているイギリスの哲学者ロジャー・スクルートンが『On Hunting(狩りについて)』('98)というエッセイを書いていて、これと、同じ著者の『Animal Rights and Wrongs(動物の権利とその侵害)』('96、第二版'98)をセットで読んだことがあった。『狩りについて』はまさにキツネ狩り問題を扱っていて、この人は完全にキツネ狩り擁護派。主張の大枠としてはカントリーライフの良さをひたすら語っているのだが、『動物の権利とその侵害』を合わせて読むと、哲学的な論拠が一応かなりしっかりあることがわかる。しかしいずれにせよ、いかにも経験主義とモラリズムの国らしく、常識をどこまでも延長していくばかりの平凡な議論で*1、動物の生命なんていう難しい話を倫理で押し切ろうとする点ではいわゆるアニマル・ライツの議論も動物愛護団体も変わらないのだなという認識を得て、その意味では勉強になったのだが、一つだけスクルートンの中に奇怪な論点がある。それはいわば人種差別主義とは区別される、むしろより本質的ともいうべき人種主義*2を、生物種レヴェルに適用したもので、つまりキツネ狩りにおいては「個体」という概念が消滅し、ヒト、ウマ、イヌ、キツネという種のカテゴリーが実体として現われてくる、その経験をスクルートンは肯定しようとする。権利や責任という理念を引き受けることができる道徳的な主体すなわち「個体」は、野生の中には存在しないのであり、キツネ狩りは人間がその野生の本能を解放する貴重な場なのだという。キツネ狩りのただ中では個体も道徳も消滅してしまうからといって、それが人間社会の中でキツネ狩りを肯定する論拠にならないのはまあ明らかだけど、動物の「個体」を取り上げて可哀想に思ったり道徳感情を抱いたりするのは、都市に住んでペットとか飼ってるような人間の身勝手な感情移入にすぎないというのは当たっていると思う。
スクルートンの描写によると、キツネ狩りというのは相当えげつない。夥しい数の猟犬が放たれて、キツネを発見すると、人間が馬に乗ってサーチして、穴に逃げ込んだキツネを穴専門の犬が引きずり出し、そこを人間がピストルでデストロイするという段取りらしい。ニュースでも映った、見た目はかわいい犬たちが尻尾を振りながら大量にトラックから降りてくるところなんかは何ともグロテスクで、見ていると無意識の内にネガポジ反転して大量のキツネの死骸が目に浮かぶ。でもたぶん、スクルートンみたいな人が懸命に擁護してしまう「ゲット・ワイルド!」的メンタリティも、動物愛護の精神も、人間の中には両方ある。どっちかを選んでしまうのは精神的にどうしようもなく怠惰だけど、どっちかというとスクルートンみたいな人の方がまだ冒険していると思う。だいたいこんなに毎日、あちこちで大量に人が死んで、テロで救急車が爆破されちゃったり、わけわからないダメな大人に子供が殺されちゃったりもして、いい加減この状況を憂うのにも疲れてくるというか、ほんとに憂うべきなんだろうかという気がしてくる。人の命なんてそんなに、いうほど大事なんだろうか、とか。でもたぶんこんなのは、自分の感覚と状況との軋轢に耐えられないから、逃げを打っているのにすぎない。何かひどいことがあると、嘆くより、慣れようとしてしまう*3。人の命なんて大した問題じゃないと言い切ってしまうことは、人の命は何より尊いんだと根拠もなく言い切ってしまうことと同じく怠惰だ。そして動物に関しては、どっちかに傾くとすれば愛護主義の方が圧倒的に優勢だと思う。動物愛護は「文化」だが、殺すのはただの「自然」だと考えられているからだと思う。そんなのはデタラメで、愛そうが殺そうが、人間のすることは何でも半分は「文化」だ。捕鯨に反対してる人とか実に能天気で、許しがたいよなあと思う。小学生の時にはまだ鯨が給食に出て、結構好きだった。鯨食いたい。

*1:ただ『狩りについて』の最後の所で、ハイデガーがちょっとだけ揶揄されている。どこまで意識されているのか…。ちなみにぼくの知る限りでは、あとオルテガが狩りについて書いていて、『狩猟の哲学』('01、吉夏社)という翻訳がある。まだ読んでない。

*2:要するに差別はしていなくても、差異の境界設定はしてしまうような立場。差別以前に境界設定自体が問題だ、というような議論が確か人類学関係であったはず。うろ覚え。聞きかじり。

*3:いつも、改宗して周囲に順応しながら生き延びていた昔のユダヤ人のことを連想する。