横浜で半日過ごす

まず BankARTチェルフィッチュの公開稽古というものをのぞく。とにかく昨夜眠れなかった&今朝起きれなかったため遅刻して3、40分くらいしかいなかったが、演出家である岡田利規が役者の演技(?)を微調整していくさまは何ともいえないインパクトをもたらした。例の膨大なセリフがまず役者には入っていて、身振りも付いている。ぼくはもっとガチガチに振付けてあるのかと思っていたが、独特にユルく、台本上のある特定の場所で「手を顔の辺りで“やる”」とか言っていた。“やる”って何だと思うのだが要するに手と顔を絡めて何か適当にやりたいように動かすということで、そこは役者に任されているみたいなのだが、それを与えられた役者は何をどう自分の中で消化し納得し前後の脈絡を付けたりしているのだろうかと想像するだけで何かすごく奇妙な世界を垣間見る思いがする。何しろ「手を顔の辺りで“やる”」について明示的な「意味」なんかないわけで、セリフの流れ、動きの流れの中にいきなり挿入されて、それを役者は皮膚移植みたいに有機的に取り込んで流れの形を再編成し直すことになるだろう。「そこはもっとつま先立っちゃおうか」とか言われて。与えられた皮膚と縫合するために役者が自分で引っ張り出してくる、それまでは見えなかった周りの皮膚とかがベローンと見えてくる感じがする。身体の無意識の層が視覚化される瞬間、というか。さらに驚愕したのは、発語のトーンをいじりたい時に岡田が「何かムカついたこととかない?」って役者に聞いて、すると役者はすぐに「家で寝てると飛行機が飛んできてうるさいんですけど」という話を、今演じてた役そのままの演技で喋り出し、そのまま続けて台本へ戻って見事に軽く「ムカついた」感じにセリフが色付けされたところ。喋り方とか動き方はもうインストールされていて即興でやれる状態で、そこから役にシームレスに移行できてしまうわけだ*1。全体的な印象として、チェルフィッチュの演出はちょっとコワい、と思った。役者のすごくパーソナルな部分、それでいて最も社会化に曝されている柔らかい可塑的な部分をいじってる感じがする。素手で内臓の中に手を入れて何か作業してるような。身振りとか話し方なんて、人の一生に対して劇的に作用するものじゃないけど、でも根本的なところでその人の一生を規定する部分ではあり、また他人にも意識下でものすごく作用している部分で、そこに外から手を触れてしまうことの途轍もないスリルを感じた*2。しかもそれを岡田は、自分がやってみせて「こんな感じで」という仕方ではなく、かなりまどろっこしくてもなるべく言葉で説明して役者に伝えるという、迂遠にして誠実な方法を採っていて、そこが印象的だった。
その後「アスベスト館ウィーク 舞踏の火、舞踏の華」なるイヴェントのレクチャーのため別棟に移動。「アスベスト館の50年〜身体・オブジェ・ノーテーション」と総タイトルが付き、さらに津田信敏、美術家、舞踏譜、と三つのテーマで三回。しかし舞踏のこういうやつのお約束で、打ち合わせもしてないダラダラした思い出話に、客席から喋りたい人がガンガン入ってきて、という実の少ない集いに終始。津田を導入して土方の神格化を解くリヴィジョニズムには基本的に賛成だが、やはり当事者の話は思い入れや思惑が強すぎて、それだけでは生産的な議論にならない。学者が必要だと強く思った。舞踏譜の解析のところは、小林嵯峨と山本萌。内容そのものより、「土方先生」を祭り上げつつ謙遜=自己卑下し、そうすることで土方と相対的に関係づけられた自分の位置を絶対化したがる弟子筋あるいは同時代人たちの凡庸な小人物ぶりに辟易した。

*1:チェルフィッチュに出てくる登場人物はわりとみんな個性が希薄というか、わかりやすいキャラクター作りで差異を出そうとしてないところがある。チェルフィッチュの基本パターンを入れたらあとは必然的に一人一人の違いが出てくる、という程度に見える。

*2:こういう時いつも、真木悠介・鳥山敏子『創られながら創ること 身体のドラマトゥルギー』('93、太郎次郎社)で引用されている竹内敏晴の言葉「からだに手をつけるってことは、地獄の釜の蓋をあけるようなものだ」(16頁)を思い出す。