「グルメ」について

『ペイルライダー』('85、クリント・イーストウッド監督)を見た。作り自体はどうかと思うところも多いけど、「正義」なるものを振りかざすことへの躊躇い、アンビヴァレンツが激烈に生きている映画。深い。ブッシュを「カウボーイ」なんて呼んだら、イーストウッドに失礼だ。ソンタグも死んでしまった*1。サイードソンタグもいないアメリカ。
ところでいわゆる左っぽい人々は往々にして芸術に政治的な批評性を求めたがるわけだけれど、この発想っていうのはもちろんマルクス主義的で、かつ、ロマン主義的であることはさておくとしても、それ以上に根深く近代美学的な(例えばカント以降の)「芸術」の概念に基づいてもいることはあまり語られないと思う。例えば料理とか服飾とかは、それ自体として何かクリエイティヴな政治的批評性を発揮できるとは期待されていない。特に「グルメ」という言い方は芸術の文脈では軽蔑的な比喩でさえあったりする。ソムリエとか蕎麦通でも同じようなものだが、要するに味覚的な経験には反省が介在しないと思われているのだろう。しかしこれは明らかに誤りというか、粗雑な議論じゃなかろうか。味の好みはどんどんねじくれ返っていく。「苦い」ものを好んで飲み、「辛い」ものを好んで食べ、「臭い」ものに惹かれるようになったりする。細かな差異がますます重要なものになっていったりもする。これは「反省 Reflexion」の作用ではないのだろうか。いや反省というよりむしろ「反射 Reflexion」と言いたくなる。ある感覚が跳ね返って別の感覚になる。だから、感覚を概念把握するのとは違って、反省の前と後で位相の差が生まれない。どこまで進んだところで、間違っても「政治」にまで高まっていったりしないというわけか。どうなのか。
あとこれに関連するかどうかわからないが、id:mmmmmmmm:20041227に書いたことを少し敷衍すると、「食」は「所有」ではない。食べることは、一方で獲得しつつ、他方で消費することである。そして手元には労働力が残される。

*1:この前PASでソンタグを引き合いに出した矢先だった。