偉大なるDamda

昨日は音楽のことをあれこれ書いたのだがうっかりブラウザの「戻る」を押してしまい、全部消えたのでやめた。不思議と腹が立たなかったのは単に眠かったからだろう。ブラウザは↓で教えてもらった Sleipnir に完全乗換えした。とにかく使いやすい。やや動作は遅いがそういうのは慣れる*1。あちこち好きなようにカスタマイズできるのが最大の特徴なのだと思うが、カスタマイズの自由度(カスタマイザビリティ?)とカスタマイズできるそれの同一性とはどういう関係にあるのか。カスタマイザビリティは、カスタマイズできる当のものの属性なわけだが、この属性によってその当のものの本質が脅かされるということがあり得るとした場合、この関係は難解であると思う。カスタマイズ可能なものが、カスタマイザビリティという属性をもつことによって、同一性を必ずしも維持できないような場合、そこには実体が存在しているといえるのだろうか。生物のように自己生成するわけではないが、可能性はそのものの内に存しているのだ。それともこれはまた、どうでもいいことを考えているのだろうか。
今日は赤レンガで山田うんを見てからSTスポットで「ラボ20」の予定だったが、今回の「ラボ」は異様な混雑ぶりとのことで、他の観客とぼくと現場、つまりここに関わりをもつ全ての人々の最大多数の最大幸福のために、ゲネに回してもらってゆったり見た。その後に赤レンガへ行き山田うんの『ワン◆ピース』を見て帰る。ジョン・ヨンドゥをパスすることによって1000円浮かしたのにSちゃんと食事して使ってしまった。
折込に岡山の Damda! の「ダンスカフェプロジェクト」映像報告会のチラシがあって、これに感動。お金がかかっていたりデザインが小洒落ていたりするとかではなく、コピーが秀逸なのだ。あの名高い丹野賢一のリアル壁破壊から始まって、昨年はずっと魅力的な(というか狂気すら感じる)企画を連打していた Damda! だが、過去のイヴェントがズラッと横並びに出ていて、一つ一つコピーがついている。例えば、
黄昏どきの/帯ほどき/コマまわし
これはエメスズキである。こんな下品な、おマヌケなコピーを付ける勇気のある制作者がいるだろうか?これは制作者である以前に、ファンであり、マニアである人の発想だ*2。あるいは砂連尾理+寺田みさこの『あしたはきっと晴れるでしょ』には、
あしたは/ホントに/晴れたのか?
と書かれてある。元のタイトルは書かれてないから、知らない人にはわからないが、わからなくても、そこに何かある、自分は知らないが何か盛り上がっているらしいということは伝わる。それでいいというか、そこが大事なのだ。面白がらせようとするのではなく、面白がってみせること。チラシで舞台そのものの面白さが伝わるはずもなく、結局は直接見る以外ない。見ていない人が見るに至る動機を生み出すのが広告というものの使命だろう。そして「まだ見ていない」人は、「すでに見た」他人が面白がっているものをぜひ見てみたいと思うのである。極めつけはこれ、
ゲンタ/早起き/なおか/夜遊び
もはや企画の内容を知らなければ何のことだかさっぱりわからない。照明の岩村原太と、ダンサーの上村なおかが、夜明けから日暮れまでという時間設定で年末に行ったパフォーマンスのことである。実はこのチラシには、驚くべきことにアーティストの名前すらローマ字でしか書かれていない。面白さ第一であって、説明などしない。「不親切」といえばいえるが、だいたい「親切」なものなんか、いいかえれば客に媚びたものなんかに消費者は惹かれない*3。突き放されてこそ食い付きたくなるのだ。この「突き放す」は、おびき寄せようとしてこれ見よがしにする媚態とは違う*4。「置き去りにする」という方が適切かもしれない。ただ一方的に相手を突き放すのではなく、自分が走って相手を引き離す*5

*1:こういう「慣れ」って体が微妙に作り変えられることなわけで、怖い。

*2:もちろんチラシにおける発話の主体が誰か、ってことが一番大きく、それがほぼアーティスト自身である場合が多いように思われるのだが、ここでは完全に制作者、というよりむしろ「興行主」である。対象とのこの距離感は、ひとえにこれが「映像報告会」だからなのだろうか。

*3:ダンスのチラシの大半がダサいが、そのパターン1。

*4:カッコつけてダサくなるパターン2。

*5:ひどい例だが犬は走って逃げるとどこまでも鬼のように追いかけてくる。