紙の死

この前、朝帰りをしたら大量の荷物が届いていて、一つは原稿用の資料、もう一つはフランス語通訳をされているHさんが引越しを機に譲ってくれた過去のダンス関係の公演資料。少し前までは、ダンスのヴィデオとか資料は保存しないと決めていたのだが、やっぱりだんだん欲しくなって、心の中では否定しつつ徐々に収集へと傾いてきてる気がする。しかし絶対にキリがないし、すでに部屋には重力異常を起こすほど書物が高密度に堆積していて、その上さらにこういう資料の収集・管理なんて全く現実味を欠いている。何かのメルマガに、ウェブなどを介したデータ共有のシステムが発達したおかげで「俺の物は俺の物、お前の物は俺の物」というジャイアンの論理が必ずしも暴論ではなくなってきたと書いてあって面白かったのだが、ぼくがこんな風に日々押し寄せる紙の類との終わりなき戦いに身を投じなければならないのも、いってみれば情報の共有化が十分なされていないからなのだ。所詮すべては情報にすぎないのだから人類の叡智をことごとくデータ化して512不可思議ギガぐらいのサーバーを人工衛星にでも突っ込んで宇宙へ放り出し電波でつないでおけばいい。まあ何かの間違いでその衛星が燃えたりしたらアレクサンドリア図書館どころの騒ぎじゃないのだがそれはそれでスッキリやり直しができて清々しいだろう。と言ってみる。