あうあう

NHKの『ものしり一夜漬け』という恥ずかしいタイトルの番組で、「Jホラー」という恥ずかしい表題のもとに日本のホラー映画を取り上げていた。幽霊はたいてい女であるとか、携帯やヴィデオやネットなどメディアを介して出現するとか、無差別に人を襲うとか、シンプルながらなかなか面白い分析がなされていた。あと恐怖によって「生の実感」が得られる、という話も、まあありきたりではあるのだがよく考えてみるとつまらなくはないと思う。恐怖に限らず映画が身体的な刺激を重視するようになって久しいわけだが、その身体的な刺激って他の刺激と何が違うのかと。要するに無関心的(interesselos)じゃないということなのだと思う。普通の生活感覚から特殊な制度的・審美的(要するに「アーティスティック」な)構えにシフトしなくても味わうことのできる刺激。つまりホラー映画は、被写体や画面の内容が「怖さ」という質をそのフレームやナラティヴの内部で実現しているだけじゃなくて、その画面が、それを見る者の生活世界の中に存在することがすでに「怖い」ことなわけである。例えば心霊写真は、恐怖の対象の存在証明として情報価値を有しているのではなく、像(写真)そのものがすでに恐怖の対象である。同様に観客は実体としての幽霊が見たいなどとは少しも思うことなく、単にホラー映画が見たくて見る*1。つまりホラー映画においてはオリジナル(幽霊の実体)とコピー(その像)の区別が成り立たず、それゆえ観客の関心(通常の生活における心身の構え)に直接訴えかけてくることになる。この意味で、ホラーとダンスは近いところがあると思う*2

*1:画面上では幽霊と人間の区別を表現するのがきわめて難しい、と書いていたのは確か高橋洋『映画の魔』。

*2:しかしじゃあ逆に、審美的な構えにおいて感受される美だの崇高だのといったあれは何なのかということも、ここから改めて考えてみることができるはずだ。制度だイデオロギーだと叩いてみたって少しも説明したことにはならない。