良い

この土日でトヨタアワードの選考会が無事終了。非常に濃い、攻撃的な、クリティカルな、ポリシーのある、他ではまず考えられないラインナップになった。良い。発表はもう少し先になる。
3年前に参加した時は、とにかく全国から集まったありとあらゆるダンスのヴィデオを浴びるように見て本当に勉強になった。自分でアンテナを張っているだけだったらまず視野に入って来ないようなものまで見られたから。今回は二度目なのでそういう衝撃はなかったものの、初めてお会いする方々とディープに議論するのがやっぱり面白かった。同じ対象に対して、同じ判断を下しているのに、見ているところは全然違っていたりする。これってどういうことなのかと思う。どんなに根拠を示して説明してみても、必ずそこには還元し尽くされない質が対象には備わっている。感性的な価値を言葉で説明できないのは当たり前かもしれないが、じゃあ自分が説明してるその言葉っていったい何を語ってるんだろう。例えば、これこれこうだから良い(悪い)という風にある根拠を論理的に言語化する。するとその根拠は、その対象の良さ(悪さ)の原因ということになるのだろうか。あるいはその対象の良さ(悪さ)の条件といえるのだろうか。仮に、人によって様々な根拠がそれぞれに説得的な仕方で提示され、その根拠が限りなく多く集められたとして、その総和がその対象の良さ(悪さ)の拠って来る原因を限りなく十全に説明するだろうか。しないのではないか、と思った。論理的に言語化される内容は、感性的に知覚される内容の、不本意にも部分的な説明ではあるが、判断という究極的にはデジタルな契機は、知覚の中には含まれていないし、論理的な説明の中にだって必ずしも含まれている必要などない。知覚された内容について、価値判断とは関係なしに、論理的に説明しようとすることはできるし、これは純粋に「認識」の領域に属する変換作業に他ならない。良いとか悪いとかいう判断は、感性的な知覚の内容に対してかなり暴力的な、非合理な仕方で押し付けられるものにすぎないと思う。押し付けた後に、論理的な説明が試みられる。しかし暴力に理屈などあるわけがない。良いか悪いか、そんなことは本当はどっちでも良く、むしろこの価値判断という暴力をどうしようもなく惹起してしまう、そのような「力」の強度が重要なんではないか。人にイエスかノーかを迫り、不本意にもイエスだのノーだのとデタラメを言わせるものは、それだけの「力」を持っている。この力自体は常に肯定的なものだと思う。イエスかノーかを言うことではなく、この力の強度を測定することが良い判断なのかもしれないなと思った。そして力の拠って来る所以はある程度説明できるし、価値判断の根拠として語られる言葉は、実は価値判断を説明したり合理化したりするのではなくて、力の内実をひたすら「認識」しようとする作業なのではないか。