悪意とは何か

昨日はPASダンスの学校で小林嵯峨と室伏鴻トーク。「舞踏はなぜ世界にはばたいたか」という題で、とりわけ外国における受容のあり方に的を絞った企画。舞踏のシンポなどでは大概がつまらない思い出話に終始するが*1、今回はもう少し理論的な話が聞けて良かった。
ともかくモダニズム批判が「日本的なるもの」とどのような関係にあるのかだ。「日本」的意匠の戦略的な「使用」なのか、もっと無自覚的な逃避なのか。60年代の日本においても十分にエキゾチックだったはずの「日本」趣味。エキゾチズムといっても、二種類あると思う。異質なものと最初に出会った時の衝撃としてのエキゾチズム、反復され了解可能なものとなった記号の集合としてのエキゾチズム。いずれにせよ、例えばフランスと日本、60年代の東京と「東北」、のような二項の間でしか身体は「はぐれる」ことができないだろう。しばしば室伏が使っていた「スパイ」という言葉が、このことに関連して面白いと思った。スパイとは、二つの閉鎖系の両方に通じていて、一方がもっている情報を他方へと売り渡し、自らは何も生産することなしにただ差異から利潤を汲み上げることのできる商人だからだ。ただしこれはどこまでいっても「差異」の問題でしかない。それでいいのかどうか。制度から「はぐれる」、意味としてとらえられないものを「暴力的に切開する」、「挑発」的な身振り、自分の中の「化け物」的なものを提出すること、こういうことの中に、単なる水平面上の「差異」(目新しさ)などではないもっと垂直的な、時間の断面みたいな「体験」を見ようとするところに、しかしぼくは抵抗を感じてしまう。わかるけど認めたくない、少なくとも口にしたくない、照れがある。
そのこととは別にして、不具性、見世物性、サクリファイス、こうした事柄について、例えば過剰な力を何にも使用しない、奉仕させない、無駄に蕩尽してみせる、という振る舞いも、ぼくには「ヒロイズム」に見えてしまう。古いロック・スターなどが内股のポーズをキメるのに似ている。英雄的な破滅が、ナルシズムになる。
ここから後は、トークではなくて打ち上げで話した内容になるのだけれども、ぼくはこの体の中から「化け物」を出すというところに、反人間中心主義的な身体観のアクチュアルなモデルを見る。不具者というものが、舞踏ではどうしてもイデアルな「ネタ」のように扱われるのだけれども、現在の世の中には不具者やコミュニケーション不能な他者がそこかしこに実際にいて、誰もがこのディスコミュニケーション状況を「現実問題」として生きざるを得なくなっているからだ。数年前に、亡くなった祖母が重度のアルツハイマー認知症)で、ぼくは病院へ見舞った時、全く無反応になってしまった祖母に見つめられながら、(なぜそうしたか自分でもわからないのだが)右手が祖母の頬に伸びて顔を撫でてしまい、すると祖母があろうことか笑顔を見せ、その場にいた全員が衝撃を受けたという経験がある。このことが今でもぼくは忘れられないでいて、最近になっていくつか本を読んでいるのだが(クリスティーン・ボーデン『私は誰になっていくの? アルツハイマー病者からみた世界』('03年、クリエイツかもがわ)[amazon]、小澤勲『痴呆を生きるということ』('03年、岩波新書)[amazon]とか、特に後者は一読で世界観が変わる)、要するに顔を触れられることの(記号的な)意味内容はわからなくても、顔を触れられること自体が意味をもつような、そういう生のレヴェルを祖母は生きていたのだと思う。そして肝心なことは、その表情がぼくや周囲の人間に対しては(記号的な)意味作用を及ぼしてくるということだ。「喜んでいる」ように見える。「喜んで」などいないとしても。この、何というか、コミュニケーションとディスコミュニケーションがせめぎ合うような、耐え難いほど宙ぶらりんな「間合い」が、いわば内容なき形式の交換みたいなものが、ぼくがダンスに見ているものと通じ合う気がする。これがダンスの条件や本質なのかどうかはわからないが、アルツハイマーの人と、分かり合うことはできないまま、踊ることはできるだろうと。アルツハイマーの人と踊れるなら、動物とも、機械とも踊れるだろう。そして自分がそのように踊る時、アルツハイマーの人も、動物も、機械も「踊らされる」のではなく「踊る」だろうということを、白井剛の『質量, slide , & .』は示したと思う。
そんなものとして(も)、踊りのことを考えていると、ぼくは室伏さんに言ったが、室伏さんは、それは「福祉」なのかと言った。そうなのだとしたら、踊りを福祉なんかに「使う(奉仕させる)」べきなのかと。ぼくなりに言い換えると、そんなもの面白いんだろうか、ということになるだろう。確かにこんな話は説教臭い*2。むしろ舞踏にとって重要なのは「悪意」であって、そんな「善意」など踏みつけてしまう。そして舞踏に惹かれる人は、「悪意」にこそ本当の(倫理などとは無縁の)スリルをかぎつけている。白井剛に悪意があるだろうかといえば、なくはないにしても、殊更そこにフォーカスしてはいない。さらに大概のコンテンポラリー・ダンスがヌルいのはこのスリリングな「悪意」が全く欠如しているからだ。「悪意」とはあえて危険に身を晒そうという意志のことだとすれば、意地でも危険を探さねば踊りはできない。アルツハイマーの人や動物や機械に、福祉的にではなく危険を求める角度でアプローチするべきということか。

*1:舞踏関係者の、過去(過ぎた「現在」)への執着ぶりは実に異常であると思う。学生運動みたいな幻滅を味わうことなしにズルズル来てしまっているからだろうか?

*2:先日のレクチャーでオン・ケンセンは「裕福な国だけがインターカルチュラルでポストコロニアルな実践に参与できる」という矛盾について指摘していた。誰もが目を逸らしていたい事実。