電波

バルトルシャイティス『幻想の中世』、シャステル『グロテスクの系譜』、と来て今度は辻惟雄『奇想の系譜』('04年、ちくま学芸文庫)[amazon]読む。「奇想」というのは、形象や図像が奇抜であるところがポイントなのではなくて、目に飛び込んできた異様な形象をまじまじと観察することによって、こんな、こんな線で細かく細かく描き込まれているのだということを把握するプロセスが面白いのだと思う。あるいは逆に、行き着く先もわからないような線の流れを追っている内にいつの間にかそれが思いもよらないモノや形を生み出していることに気づく場合もあるだろう。いずれにせよ、こんな入り組んだ線が、あるいは、こんな単純な線が、異形の生き物を描出しているとか、異質なもの同士のあり得ない連結を可能ならしめているというところに驚きがある。つまり形は、それ自体として興味を惹くのではなくて、形と、それの成り立ち(プロセス)とが相互に定義し合うような仕方で目を楽しませる。他方、線はといえば、必ずしも常に形と関係があるのかどうかはわからない。少なくとも、それが最終的に産出するところの形を予想させない線というものが存在する。つまり完結して形とならない、あらゆる可能性をオープンにしたままの状態の線というものがある*1
あと必要があって三島由紀夫『禁色』('64、新潮文庫)[amazon]を買った。三島なんて一冊も読んだことないが、こんなに分厚いとは知らなかった。それにしてもこうやって必要になった時に書店の文庫の棚へ行けば置いてあるというのは何て素晴らしいのか。全ての本が斯くあるべし。『奇想の系譜』も高くてずっと手が出なかったが文庫になったおかげで買えた。だいたい日本の本は造本や装丁がゴチャゴチャしすぎている。モノとしての本の楽しみはあるが、それ以前にまず単なる印刷物(コピー)として存在していてほしい。
来月の京都の仕事が消滅。論文を生産する機会を失ったが別に機会などなくてもいつだって書けばいいのではないか。意志の問題なのだ。といっているそばから何だか肩の荷が軽くなった気がして、山口から京都へ直行する必要がなくなったから山口に少し滞在してあちこち見たい。
携帯にメールが来ると返事がすごく短くなってしまう。ぼくの携帯がプリペイドで、機能的には非常にショボく、特にボタンの反応と液晶表示が異様に遅いため、まどろっこしくて長い文章を打てないという歴とした理由があるのだが、いかにも素っ気ない感じに受け取られてしまうので、これは一つの問題には違いなく、今auの定額ライトというのが気になっている。

*1:線をそれ自体で「線」と見なしてしまえば、それは瞬時に、一定の幅のある「形」になってしまうから、やはり形と関係のない線は存在しないのかもしれない。