死亡遊戯

『奇想の系譜』に書いてあったのだが、若冲は庭に鶏を放ってそれをひたすら描きまくっていたという。何か定まってある描き方を習得するのではなく、ひたすら対象に迫ろうとし続ける。対象への迫り難さがますます手にプレッシャーをかけ、線や形の可能性を果てしなく耕していく。そんなことやって一生生きられたら何も文句はないと思う。
そういえばニュースを見ていたらマイクロソフトがX‐BOXの後継機を発表していた。X‐BOXのネックはソフト開発が軌道に乗らなかったことだそうで、後継機ではキラーソフトの開発を重視するらしい。今のゲームはとにかくグラフィックスのクオリティが凄まじく、その大変な作業を少し紹介していたのだが、3Dのキャラクターの、口がパクパク動くように作っていて、さらに瞼とか眉毛も動くようにするのだとか言っていた。ただのCGならまだしも、ゲームはプレイヤーが操作するので、ありとあらゆる可能性を全部プログラムする。おそらくグラフィックスに大変な人数と時間が費やされているのだろうが、この人たちは「ゲーム」を作っているのだろうか?と考えると甚だ疑問である。
ぼくもグラフィックスは嫌いではないので子供の頃は結構そっちに騙されてクソゲーをつかんだりしていたが、今となってはそんなバカみたいにリアルな映像ではなく、ゲームは「ルールの面白さ」次第なのだと理解している。中学生の頃、貯金を崩してシャープのX68000を買って『源平討魔伝』をやって喜んだりしていたが、結局のところあんな稚拙なアクションゲームもないのであって、むしろファミコンでできる『バルーンファイト』や『マッピー』の方が圧倒的に優れている。ファミコンで初めて2メガロムを使用したコナミの『がんばれゴエモン!からくり道中』はマップが広いだけの歴然たるクソゲーである。しかし、ゲームは「ルールの面白さ」次第なのだとはいっても、さらに奥があり、それはより感性的な領域に属している。すなわちボタン操作に対するキャラクターの反応の速度、あるいは加速/減速、止まり方、重力、効果音のマッスとタイミング、そして当たり判定の加減である*1。これら体で感覚される情報を、ぼくは一つ一つのゲームについて克明に覚えている。グラフィックスの細部など忘れても、感覚は残り、個々のゲームの本質はほとんどそこに結晶している。『パルテナの鏡*2のジャンプの浮遊感と着地の頼りなさ、『R−TYPE*3波動砲の重い音響と、磁力のように吸い寄せられるポッドの装着感、こうしたものは全てゲームにおけるエクリチュールである。これが「ルールの面白さ」なるものをさらに深いところで繊細に規定しており、隅々まで遊び尽くしたゲームでもふと思い出してやりたくなる時、それはもはやゲームの規則と戯れたいからではなく、このエクリチュールに身を浸したいからなのだ。ほとんど音楽を聴くのに似ている。良いゲームは音楽的である。

*1:当たり判定とは例えば自キャラと敵キャラが接触したかどうかを決定するプログラム上の要素であり、これは画面上の視覚的な接触とは必ずしも一致しない。基本的に敵キャラに対しては厳しく、自キャラに対しては甘くなっていて、自分の武器が敵に正確にヒットしていなくても当たったことになり、自キャラに敵が少しぐらい接触しても当たっていないことにされる。これをあまりシヴィアに、視覚上の接触と一致させてしまうとゲームの感覚は「硬質」なものになる。

*2:どちらかといえばクソゲーである。

*3:家族で松島に行った時、そこのホテルにあって、松島のことはほとんど何も覚えていないがこのゲームのことは忘れられない。後にPCエンジンで全てクリアした。