死して屍拾う者無し
「動く動き」と「動かない動き」(ないし「生きた動き」と「死んだ動き」)とがありもっぱらダンスは前者を目指す。動きそのものが、動く場合と動かない場合とがある。
動かない動きとは、初めにおいて終わりが見えている動き、あるいは意味形式として了解可能な動き、つまり単なる過程としての動き。典型的には反復である*1。
これに対し、初めにおいて終わりを見通せない動き、意味形式としてのまとまりを完結させない動き、反復可能性を前提としない動きは、もはや過程とは呼べない。動きとはそもそも過程としてしか始まらないが、それを過程性から脱落させるような方法を考えることができる。これが「ダンスの方法を考える」ということなのだと思う*2。動きとしてある形式=意味を、さらに動かしていく、脱輪させることによって、動きは二乗される。反復不可能な出来事を引き起こすための地雷を仕掛ける。無意味な動きがダンスに、あるいは、振付がダンスになるのはこの時においてだ。もちろん脱輪の「瞬間」をエクスタシー=テロスとしてしまってはいけない。ダンスは「持続」であり、「持続」はテロス(目的)を設定した途端に単なる過程に堕してしまう。意味から脱輪し、二乗された動きが、その累乗化を止めないこと、動き、動き続けることが「ダンス」である。したがってダンスの動きの中には、動かすことと動かされることが常に交錯している。
逸脱は地図によって可能ならしめられる。派手な逸脱のためには地図の整備が欠かせない。
*1:もっとも反復さえしていればダンスになるのだとさえ考えられがちだけれども、しかし反復ダンスの反復は、反復自体に目的があるのではなく反復の中に大きな一回性の「動き」を立ち上げてしまうところに目的がある。繰り返しは、離陸の手続きである。反復そのものが一回的であるという場合、反復が差異・ノイズ・事故を発生させるという場合、いずれにせよ、反復的な、反復でしかない反復と、一回的な反復とがあり、ダンスはやはりこの後者を目指す。
*2:対して様々な反復パターンや意匠を考案することが「振付」であると思う。両者を截然と区別することはできないにしても、振付に対する方法の優位は明らかだ。フォーサイスや土方は方法論者、キリアンやエックは振付家。