地縛霊

霊にも様々あるが、少なくとも地縛霊は実在すると思う。人は環境の中に根を張って生活しているから、例えば同じ道を毎日通ったり、時々行く店や建物があったり、家の中などは暗くても自由に歩き回れるくらいだったり、という風に、周囲の環境へと体が拡張して浸透してしまっているわけだから、その人がいなくなったら脱いだ服みたいにして抜け殻が残り、その人の体の形を示し続けるだろう。余韻みたいなものが残る。
今月出る『ユリイカ』が「特集・小劇場」ということでぼくはダンスのアーティストやカンパニーの紹介を10個ほど書いた。各11001050字(間違えた)なのだが経歴紹介というよりは前から試みてみたかった「作家論」的なことを小規模にやってみた。それで身体表現サークルは「広島」で結成なんだよな、ヒロシマといえば、ということで何となく中断して放ったらかしていた椹木野衣の『「爆心地」の芸術』('02、晶文社)[amazon]の後半から読んで、まあ色々あるけれども、こういうことを言い始めると舞踏はヒロシマだとかいうことはさておくにしても*1、要するに「祭り」はやらなければいけないんだなと思った。ただし濃い祭りを。というか生きてること自体、「祭り」以上の意味はないんだから、それを濃くする以外すべきことは残されていないはずなのだ。そのようなわけでこの本の後半で面白かったのは何といってもプロレスの話で、猪木が「フィクションとリアルの彼岸」へ行っちゃってるという辺りは愉快である。「アミン大統領、アントニオ猪木と対決」とか。とはいえ村上隆のやっていることを興行戦略のみに還元してしまうと「猪木の試合は、異なる文脈に属する両者が同一平面上に乗った時点で、ほとんど終了している」というのに似た、空虚なイヴェント(薄い祭り)へと矮小化してしまうことになる。ぼくは椹木の文章は単行本くらいしか読んでいないのだが、この本を読んでいる感じからいってもどうも個々の作品の質があまり語られていなくて、「日本」とか「戦後」とかいった文脈に一面的に執着し過ぎているような印象が拭えない。もっとも「リアル」なものへのダイレクトな耽溺が一応は恥ずべきことであるとして、なおもその羞恥を乗り越える反省の回路としてプロレスを「フィクションとリアルの彼岸」というよりも「フィクションとリアル」の境界領域として把握し、その虚構と真のせめぎ合いを増幅・変形していくことこそ「濃い祭り」なのではないかと思う。なぜなら祭りは虚構であって真であり、そのどちらかであってもいけないようなものだから。虚に開き直ると薄いニヒリズム祭りになり、真に開き直ると戦争になる。
それでぼくのかねてからの懸案としては現在の(新しい)ダンスのグランド・セオリーを樹立することなのだけれども(といいつつ同時に椹木野衣を読んでいるとそのような振る舞い自体がすでに祭りの一部なのだということを自覚せざるを得なくなるのだけれども、だとすればもう濃く祭る以外にない)、ダンスもやはり祭り以外の何物でもないだろうと。最初は嘘の約束事(ルール)で始まって、途中で「リアル」がチラチラ見えたりして、思い切って開き直ってみたり、やっぱり恥ずかしくなったりする。約束事(ルール)すなわち「振付」としての動きを「一次運動」、それを累乗化し逸脱し屈折させていくメタレヴェルの動き、すなわち「ダンス」を「二次(n次)運動」、とここにメモしておく。
とりあえず『現代思想』の2002年2月臨時増刊「総特集・プロレス」[amazon]を読み始めてみたら最初のターザン山本香山リカの対談からいきなり面白い。ターザン「プロレスが、人々あるいは世の中でわからなくなりつつあるんですよ。もともとプロレスは客観的な定義ができないものですが、プロレスの四文字が何であるかはプロレスが好きな者にはわかっていたんですね」。まさにぼくは「わからない」人だがこのトートロジカルな性格はダンスにも当てはまろう。ちなみにターザン山本は『週刊プロレス』の編集長だった人だそうで上述のような猪木の身振りに対して激烈に批判してもいる。「猪木さんは三〇年前からただ一つのことだけを言い続けてきたんだよね。「世界」。「世界に向かって」、「世界を意識して」という、あの「世界」という二文字が一番好きなんです。K‐1の石井館長も世界という二文字が好きだよね。あれほど漠然とした、内容のない言葉はないよ。確かにアリ戦をやったりとかいろいろあったけど、どこに世界があったの?何をやったの?」。「薄い祭り」ということで連想されるのは日本の比較的ビッグ・バジェットなコンテンポラリー・ダンスであって、小さくても「濃い祭り」をぼくは支持する。

*1:コジェーヴが来日したのが『禁色』初演の1959年、というおいしいネタにも気づいた。三島は切腹した。