ピナ・バウシュ

ピナ・バウシュが良かった。ぼくは96年来日時の『船と共に』を見たのが最初で、それ以降は全部見ているし、ヴィデオで見る機会があれば逃さず補完しているが、とりわけ90年代以降の作品は何だかよくわからなくて、ひたすらサムく、さらに近年になると作品そのものが毒にも薬にもならないような気の抜けたものになってしまっていた。そして今回の『ネフェス』はといえば何しろ『過去と現在と未来の子供たちのために』と『天地』の間の作品なので、どう考えても期待しろという方が無理なわけだけれども、その期待のなさが幸いして、とてもニュートラルに見られたのだった。劇的に新しいことをやっているわけではなく、多分に「匙加減」的なことだろうと思うのだが、湿度の高い空間、陽気で楽天的かつ悪戯っぽく官能的なシークエンス群、まとまりのある選曲、いかにも感情が溢れて踊り出してしまうとでもいうような展開の仕方*1などなど、色んな意味で完成度の高い、よく熟した作品だと思う。何といっても、しかめっ面をしたような悲劇性も、観客のリアクションを狙ったウザいギャグもなく、あくまでもフラットにフラットにドラマを抑えてあるところがいい。共感できた。
ところで今日は、過去にピナ・バウシュを見た中では一番前の方の席で見ることができて(8列目)、このこともまた好印象とは無関係ではないと思う*2。プロセの舞台から一定の距離を隔ててしまうと、どこかヴィデオ映像を見ているのと似た感覚になることがある。舞台に近いと、舞台上のA点と自分の眼球との間の距離と、B点と眼球との間の距離の差が意味を持つが、舞台から遠いと、A点だろうがB点だろうがあまり差がなくなる。つまり舞台上のどの点も、自分の眼球から一定の距離の中に収まることになってしまう。極論すれば、眼球からほぼ等しい位置にある点の集積ということで、舞台はつまり一つの「平面」になるといっていいだろう。立体感が乏しいということはつまり自分の体がそこにあることの意味が乏しいということでもある。さらに加えて、プロセのフレームの機能も無視できない。フレームというのは、無限に広がっている空間の一部を切り取って、その外部を捨象しつつ内部を緊密に組織化するものであって、当然ながら自分の体はフレームの外へと括り出される。フレームは、空間が含んでいる情報を、立体感を欠いた視覚情報へと切り詰めつつ、圧縮する。先日NHKで白神山地のブナの林を生中継しているのを見た。いかにもそこに行ってみたくなるような生々しい映像だったが、実際にそこに身を置いてしまうと、おそらく匂いだの気配だの熱だの湿度だの虫だの様々なノイズが一斉に襲い掛かってきて、モニターで眺めるような「ブナの林」はたちまち消え失せるに違いない。「ブナの林」を見るに留まらず、そこに入ってしまうと、「ブナの林」という対象ではない何か別の諸々のものへと関心が移って行ってしまうだろう。ヴィデオは、そこをあえてフレームで切り取り、視覚情報へと切り詰め、純化し、「ブナの林」を観察できるようにしてくれる。ところが舞台というものはそんなものであってはつまらないのだ。プロセは一応フレームであるけれども、あくまでも立体のフレームなのであり、内部は組織化されるとはいえ、外部を捨象してしまっては元も子もない。だからある程度以上、客席を深く作ってしまうと、それはそれとしての機能を著しく低下させる。ただし舞台を遠くから見る場合、ヴィデオとは異なり、対象の「小ささ」(=遠さ)は解消されずに残る。対象の小ささ、遠さ、によって逆説的に「ライヴ」感を得るということはできる。
終演後には数人で少し飲んだ。今日のを喜びつつ、先日のアレについて大ブーイングできた。溜飲が下がった。若手ナンバーワン制作者Aは「マスを相手にするのは自分には無理」と言っていたが、マスに受けている人がマスだけを相手にしていると考えてはならぬと思う。マスに受けて、コアにも受けるようでなければ。あるいはコアに受けて、それがマスにも受ける。そのどっちでもいいが、ただマスに背を向けることでルサンチマン的にコアという内輪を捏造する不毛だけは常に警戒して遠ざけねばならぬ。

*1:難をいうとソロダンスが軒並みパッとしないところか。唯一スゴかったのが、演歌みたいな歌で踊る高木賢二のソロ。最近はよく目立つディッタ・ミランダ・ヤジフィも全然ヌルかった。この作品にゲスト出演しているシャンタラ・シヴァリンガッパのインド古典舞踊(この人の踊りは本人サイトによればバラタナーティヤムではなくクチプディであるようだ)に男性サポートが付くところもちょっと面白かったが、踊り自体はそれほどでもない。

*2:たまたま個人的に「好印象」だっただけで作品は別にいつもと同じだったのでは、という風には全然思わないが。