The Jellyfish Climbing up the Waterfall

旅館の朝食は旨いというセオリー通りに旨い朝食後、再びYCAMへ移動して施設を案内して頂く。メインのホールは縦に深く、真っ黒。もうすぐ内橋和久とUAのパフォーマンスがあるのでその準備が進められていたがUAはいなかった。ぼくはこの後、日本海側の萩へ出かける予定でいて、しかし出発前に調べた時は電車しか頭になくて、すると片道3時間〜4時間もかかってしまうことが分かり愕然としていたのだが、岸さんにバスなら早いと教わってホッとした。片道80分ぐらい。それならむしろ、ということで予定を変え、少し根は張るもののレンタカーを借りて好きに動き回ることにした。新山口までタクシー、そこから車にチェンジし、まず秋吉台へ。
カルスト台地秋芳洞という巨大な鍾乳洞へ行く。鍾乳洞として「東洋一」の規模という謳い文句が昭和。観光シーズンというわけでもなく、しかも月曜なので人も疎らで閑散としている。両側に土産物屋が並ぶ細い道を抜け、ゲートからさらに進むと入り口。流れ的には江ノ島の岩屋みたいな雰囲気だったが中は凄かった。広いのはもちろんだが奇怪きわまる地形(洞窟生成物)がこれでもかと続き、そこにポエティックな名称が付けられている。流水に含まれる石灰が固着して積み重なり、それが無数の小さな平たいプールのようなものを形成し、こんもり盛り上がって山のようになり、あるいは上から滴る水が作った鍾乳石(天井から下方向に)や石筍(地面から上方向に)の林立地帯、細かいテクスチャーをもった滝のような壁、深遠な裂け目の奥底までダイナミックに流れて行く波のような紋様。一切何の意味もなく、これらはただ時間の経過とともに「こうなっている」だけであるという、そしてこれから未来永劫こうした遅々とした変化がいかなる意味も目的もなく打ち続いていくであろうという絶望的な事実。ラヴクラフト。「黄金柱」と呼ばれる巨大な柱などは、自然が作り出すリズミカルな窪みによってロマネスク教会の柱そっくりである。一番奥まで辿り着くと、上から伸びる鍾乳石と下から伸びる石筍がほとんどくっつきそうになっているものがあって、音声解説によるとこれはかつて一度はつながっていたものが地殻変動で石筍が下がって分離し、今は4、5センチの隙間がある状態なのだという。「これが再び元通りにつながるには、おそらくあと四、五百年はかかると言われております…」というどこか物悲しい、奴隷譚か神話でも語っているかのような中年女性の声が、とっくに人の無力さに絶望している心に止めを刺す。自然に生まれた奇怪なフォルムを前に人々が軽やかに弄んだつもりであろうネーミング(=解釈)の風流、ウィット、遊び心が、壮大すぎる無意味を前にその不能ぶりを露呈する。「巌窟王」「南瓜岩」「洞内富士」「大松茸」「五月雨御殿」。極めつけは「クラゲの滝登り」。確かに、傘のような形状が壁面でいくつも垂直に連鎖しているが、これをして「クラゲの滝登り」に見立ててしまうその気丈さ、余裕、距離感覚がむしろ、突き刺さってくるグロテスクをかわさんとするギリギリの虚勢としてしか受け止められない。
意識の奥の方で「カチッ」と音がして何かが確実に変化してしまった。もう元の自分には戻れない…と半ば呆然としながらほうほうの体で洞穴を逃げ出し、土産物屋で飲み物をもらう。お客はぼくの他に夫婦が一組いるくらいで、近くの席に老婆が座って賄いの昼食をとり始めた。「一人旅もいいでしょ気楽で」と声をかけられる。確かに、少人数で出かけると会話が途切れるのが気まずくて喋らなくていいのに喋り続けて疲れてしまうということがままあり、それに比べると黙って好きに歩けるのは楽だ。しかし今や頭の中を占拠しているのはそんな俗界のチマチマした事情ではない。もっと圧倒的に巨大で、無意味で、無際限で、目的もない唯一の絶対的な運動のことなのだ…。秋芳洞の入場券の半券に「科学博物館へもどうぞ(入場無料)」と書かれている。とにかく自分の目で見たものを理性で整理してしまいたいという欲望を抑え切れず、ここへ向かうことにした。
どこまでも続く緑色の丘に点々と白い岩石が見えている。イギリスやアイルランドの北側にはこんな不吉な景色がありそうな気がする。科学博物館は、景勝地に行くと時々ある地元の研究施設で、入るといきなり秋吉台に生息していたというサイの骨格模型や、微小なコウモリの骨の化石、哺乳類の頭骨などが展示されている。フズリナの化石。秋芳洞の水に生息しているという、目の退化した白いエビの類。ここの生き物ではないが、メキシコのブラインド・ケーヴ・フィッシュもいた。目が退化したからといって全体的なデザインは変化しておらず、眼窩にあたる部分はそのまま肉で埋められているように見える。ジオラマで時代を遡る。二万から五万年前に類人猿が現れる。その前はヘンな哺乳類。その前は恐竜。その前は三葉虫。その前は原生動物。その前は化学物質。その前は、マグマ。「理性で整理」どころではない。狂う。ただの物質(モノ)から生命(意識)が、無意味から意味が、何億年もかけて(しかしそれは確かに、「永遠」などという曖昧なものではなく、「数億年」という具体的な長さをもった時間なのだ)発生してくる。ということは、意識をもって地球を見ているこの自分は、地球の自意識なのか。一歩ずつ歩く足のこの小さい動き、飛んでる虫の羽ばたき、揺れてる草の無意味。
世界観に深刻な混乱を抱えたまま、しかし計画通り、近くの秋吉台国際芸術村に寄る。「あれ」に拮抗し得るのは芸術の創造力しかないとかそういう陳腐なクリシェが浮かび上がると同時に根元から萎えていきながら、芸術家の長期レジデンシー用施設、スタジオなどを見学。ここは確か初期は現代音楽をメインに扱っていたはずだが、近年は様々なジャンルに手を広げている。かなり広い敷地、カッコいい建物、しかし今日はイヴェントもなく人気はほとんどない。ヴィデオなどのインスタレーションが置かれた無人の空間に音楽が響いて寂寥感。
あまり時間がなくなってきたので萩まで飛ばす。山は低く道は楽で、交通量も少ないので快適。萩駅から少し北へ行って、「萩しーまーと」という市場に直結したマーケットに寄る。一人で店に入って飲んだりするのはちょっとイヤなので、ここでいい肴と酒を買って部屋で飲むことにした。しかし思ったより品数が少なく、鯛やヒラソ(ヒラマサ)、アジを少しと、あとはこの地方の特産であるケンサキイカの生きてるやつを殺して捌いてもらった。死んでるのも並んでいたが、店で生きてる魚が置いてあるとどうしても殺して食いたくなる。地酒も少し。とにかく安上がり。宿へ行くとここも安かったのに普通のきちんとした温泉旅館風のホテルで驚いた。すごい地元の高校生のバイトみたいな女の子がキョドりながら部屋まで案内してくれる。イイ。つげ義春っぽい。10畳もある広い部屋に一人。平日だからとにかく安い。窓からマリーナが見える。エルマガのFさんから電話、来月号の話だが書く対象があまり得意でなかったので適役と思われる書き手を紹介、あと『禁色』の話など。風呂に行っても誰もいない。部屋に戻って酒と魚をあけてやり始める。シチュエーションは贅沢だが魚がどれもイマイチでやや期待外れ。捌いてもらったばかりのケンサキイカも触感だけで味が弱く、こんなもんかという程度。一人で酔ってまた風呂へ入ってまた飲んで寝る。