徘徊

時間ギリギリになって朝食をとりに行く。やはり若い男女が一組いる他は誰もいない。結構きちんとしたヴァイキングなのに全然減ってない。勿体ないが食欲もないので果物とヨーグルト、パン、コーヒーを二杯。
チェックアウトして出かける。とにかく今日は、夜の飛行機まで時間がある。何か珍しい観光ポイントを求めるわけでもなく、ただ良い雰囲気の場所に行ってみたいだけなので、とりあえず近くの笠山という岬へ向かってみる。頂上へは行かず、突端の方にある椿の群生林へ。途中、崖から日本海が見える。実は初めて見た日本海。壮大な景色で、まだほとんどセミは鳴いていないが、夏の始まりの陽射しとあいまって、しばし見惚れる。13ヶ月前のアイルランドのホウスを思い出す。時々車を止めてボーッとしながら岬の周囲を回り込むと行き止まり。椿の群生林は一種のキャンプ場のような公園になっているが、当然椿の季節でもないし、道路沿いに地元の草刈人が数人いたものの、それ以外に人の気配は全くない。少し中を歩き回ってみたがマングローヴのように両側から生い茂る椿が異様なぐらいで別に面白いこともなく、野良猫がいたので構ってみたら距離をあけてずっとついてくる。公園を出ると小さな灯台。海を見る。すぐ近くにいくつも島があり、集落が見える。強い海風。さっきまで座って待っていた猫はいなくなっていた。
車に乗って移動。観光地図上で一際異彩を放っていた「反射炉」というポイントへ行ってみる。何の説明もなくただ「反射炉」とあり、そのものものしく無味乾燥な字面がかえって自分は当然そこへ行くものとして指示されてあるような印象を受けたのだった。国道191号線沿いの味気ない駐車場のようなところへ車を止めて、すぐ脇の階段を上るとそこに反射炉。レンガでできた、鉄鋼を溶かすための炉の廃墟で、「反射」というのは発生させた熱を一度天井に反射させ、それを鉄鋼にあてるという仕組みのことらしい。反射させると、させない場合に比べ何がどう得なのかは、書いてあったのかも知れないがよく読まなかった。いわゆる「近代化遺産」というやつの一種。
近くに萩国際大学があるようなのだが、そういうのを冷やかしに行くのはもう卒業して、松陰神社へ行ってみる。松下村塾とかある。
お腹空いてきたので萩市内へ。萩の中心部は松本川と橋本川の間に挟まれた中州状の土地である。どこで何を食べるかは事前にウェブで調べてあり、カーナビで探して萩城下町の木戸孝允旧宅の向いにある「がんこ庵」という蕎麦屋へ行ったら火曜が定休とメモしたのを忘れていた。次の候補は「蕎麦舗ふじたや」。細い路地に面した、見た目かなり地味な普通の食堂みたいだが、有名な店で、狭い店内は観光客のみならず地元の人もいた。観光客は皆せいろを頼んでいたのでぼくもそれを食べることにする。相席になった地元のおじさんは肉うどんだった。小さなせいろが五段重ねになっていて、驚いたことに蕎麦が温かく、湯気が上がっている。つけ汁も温かく、さらに卵の白身だけの掻き玉みたいなのと青葱が入って、黄身は生でポチャッと落としてある。味は甘辛い。要するにすき焼きのたれに似ている。蕎麦は太くて短く、蕎麦粉が多め。蕎麦湯が茶碗に入って出てくるので、これをつけ汁に入れたらコクがあって最高に旨かったが蕎麦自体は特別どうという風にも思わなかった。とりあえず珍しいものを食した、というところ。肉うどんにも同じ蕎麦湯が付いてきていたのが奇妙だった。TVのニュースで新潟は大雨とか言っていた。
萩城跡の辺りへ行って、自転車を借りる。どこら辺を見たらいいのかと聞いても、お店の人は優しすぎて、観光地図に記されている色々なポイントも実は別に期待するほどのものではないのだということを親身に言ってくれる。1時間210円。さっき車で通り過ぎた萩城下町の中を走り回ってみる。白壁は強烈に白く、情緒どころかあらゆる感情を漂白してしまうような、直視しがたい何かがあった。それに対して低い石垣が続くと沖縄っぽい雰囲気になる。いろいろ歴史上の人物にまつわる屋敷の門などがあり、若干の観光客が歩いていたり、中学生の集団が自転車に乗ったりしていたが、地図に記されているポイントは確かにどれも非常に地味で、実際に人が生活している住居などと区別がつかない。毛利輝元が埋葬されている天樹院墓所へ行ってみた。毛利輝元って誰だか知らないが。海に突き出した地域へ。石彫公園を通って萩城跡。石垣の土台だけがあり、周りに堀がある。中へ入るのは有料なのでパスしたが、周りから見るだけでも小ぢんまりとした城跡が強い陽射しを浴びて醸し出す空虚な感じは悪くなかった。堀の傍をノロノロ走っていたら緑色をした水面に何か黒い、親指大のものが突き出している。何かと思って足元に目をやると、夥しい数のカメがすでに自分の方を目指して集まり始めていたのだった。完全に餌付けされているクサガメやアカミミガメの類に、鯉や鴨までが入り混じって蝟集し、互いの体を押し退け掻き分けながらもがいている、その醜悪きわまる光景に唖然として目を釘付けにされていると、どこから見ていたのか土鳩までが何羽も飛来した。辺りにある小石を投げてみればこれら鳥類・爬虫類・魚類などの族は一斉に我勝ちにその方向へ身を翻す。気分が悪くなった。
ちょうど一時間くらいで自転車を返し、汗だくになっていたのでかき氷などもらって、ほとんど誰もいない土産物屋で休んでいたらつい十分ほどウトウトしてしまった。
もう萩ではすることがなさそうだが時間が少し余っている。帰り道の途中の小郡に山頭火の其中庵があって、そこへ行ってみたいという気持ちもあったけれども、それより山の空気に浸って、それを山口の最終的な印象として帰りたいと思ったので、適当に長門峡という景勝地を目的地にして走り出した。思っていたより遠く、50キロほど走って着いた頃にはあまりゆっくりできなくなってしまったが、深い山間の谷川に沿って遊歩道が作られており、そこを少し歩いた。巨大な岩、川の流れ。セミが鳴いていないのが惜しい。ところどころ道沿いに誰かが書いた俳句みたいなのが置いてあって、それが妙に所帯じみていて笑えた。「その一言 控えて家内も 丸くなり」など。陽が傾いてきて蚊が出始めたので戻る。人気のないドライヴインで肉うどんを食べてみた。やはり西日本はうどんであり、特別な店でなくても旨い。イタリアへ行ったらどんな場所でもピザが旨いのと同じように。
山口宇部空港までまた50キロほど。市街地を抜けるので少し渋滞したが19時過ぎに着く。車を返して飛行機に乗って帰る。持って来ていて結局読まなかった先週の『TV Bros.』を読んでいたら、ちょうど読み終わる頃に羽田に着いた。