成田

朝成田着。中途半端な時間帯の夜間飛行だったため眠い。一度帰宅して溜まりに溜まった郵便物をチェックし、昼にACCのGさんに会って簡単に報告をする。
シンガポールインドネシアの「コンテンポラリーダンス」はいってみれば日本の「新舞踊」みたいな、伝統とモダニズムを(しばしば素朴な仕方で)折衷する方向であれこれ試みているという印象を受けた。しかしそこへ日本の「コンテンポラリーダンス」を対置してみると、そのあまりに個人主義*1な種々の探求のスケールの小ささは、いったいどうやって擁護し得るのだろうかと途方に暮れてしまいもする。
それにしても二週間ずっと移動ばかりしていたので、帰国しても微弱な懐かしさとか不思議なほど感じない。どこかから帰って来た時に感じるあの懐かしさは、単に不在の時間の長さの問題ではなく、ある特定の別の場所への帰属・順応の度合によるものなのだと発見した。知らない土地でも、そこへ安住してしまえば新しい家になる。しかし移動し続けていると、家の観念そのものが薄らいでくる。どの土地も同じ程度の距離感で眺められるようになるのかも知れない。
明日一日で準備して、2日にNY入り。

*1:個人主義的」という形容は、72-13におけるぼくのスクリーニングおよびトークにおいてシンガポール振付家の口から発せられたもの。しかし、「individual」すなわち「(これ以上)分割不可能なもの」というのはあくまでも相対的な観念に過ぎない。共同体の伝統なるものに自覚的に執着しないという意味では日本のダンスは「個人主義的」といえるだろうが、しかしその「個人主義」がむしろ互いに無自覚的な依存関係の上に成り立っているのだと仮定することもできてしまう。例えばラッシュ時の駅でよく見られるような他人同士のいきがったいがみ合いは、本当の危険を顧みない無思慮な挑発という意味で、実は根拠もなく互いに信頼し合っているがゆえに可能なのだろう。反対にインドネシアでよく見られるような、いかにも穏和で笑みを絶やさない事なかれ主義的な他人同士の付き合い方は、実は根本的な相互不信の上に成り立っているのかも知れない。そう思ってみると日本のダンスシーンにおける舞台と客席との緊張感のなさ、ヌルさは、「個人主義」とはほど遠いような気もしてくる。もちろん相互不信の上に成り立った自覚的な共同体主義とも違う。