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9月からあちこち回って、今はNYでダンスを見ていて、色んな人と話をして、本当にみんな考え方が違うし、それを互いに共有することや理解し合うことの難しさを改めて実感しているが、それも決してただダンスを言葉にすることの難しさに帰着するばかりではなくて、ダンスや身体がどういう社会的文脈の中にあるのかという受容レヴェルの多様さにも由来しているのだと思う。例えばこの前見たベベ・ミラーにしても、あるいはもっと新進のジーナ・ギブニーという振付家の場合にしても、あからさまにバレエやモダンの基礎が見えるような、ラインのしっかりした装飾的な振付なのに、それについて語られる言葉はまるでニブロールについて言われているのとほとんど変わらないようなこと(「他者」とのコミュニケーションの問題を扱っているとか、見知ったものと見知らぬものとの境界線、とか)だったりする。これだけ違うダンスについて同じことが語られてしまうということは、一方では確かに、そうした言葉が決してそのダンスを十分「客観的に」捉え得ていないということでもあり(なぜならそれぞれのダンスの差異を構成する形式上の特徴については何も語れていないことになるわけだから)、しかし他方では文脈(シーン)は異なれども表現者の問題意識はNYと東京で共通しているのだともいえる。しかしやはり、表現の形式に無頓着なまま語れてしまうことだけを語ることは、結局その表現をダシにして、ただ自分が語りたいことを好きに語っているのとあまり変わらない。東京で見るダンスに、語られないまま見過ごされがちな「無意識」的な領域があるとすれば、NYで見るダンスにもそれがあり、これらはいずれも劇場を取り巻く社会、人々の生き方に由来していて、それだからこそいちいち語られないままになるのだろう*1
この前、ある舞台を見ていて「芝居臭い」と感じ、それがなぜなのか、「芝居臭い」とは何なのか、そして「芝居臭くない」とは何なのかを考えてみたが、要するにNYのダンスはみんな観客の方を向いているのである。物理的に正面性を強調していることも多いが、いかにもこれはダンスですよと言わんばかりの力んだフォルム、大袈裟な呼吸によって観客にそれが「ダンス」であることを了解させようとする。もちろんそんな風に宣言したところでそれが本当にダンスになるかどうかなど何の保証も得られはしないのだが、成否は別として、そうした自意識過剰の(と思われる)身振りが大変に鬱陶しい。街を歩いていても別に、よく言われるほどには人々の「自己主張」は強くないし、むしろきわめて快適な相互の無関心が保たれているが、しかし舞台となると途端に、ローマの弁論術以来の伝統か、歯切れよく明瞭な、誤解の余地のない発話が良しとされてしまうかのようだ。この点、演劇がそういうものとして近代化されてきた経緯を、ダンスもほとんど踏襲してしまっているといっていいと思う。
芝居臭いNYのダンスの何が退屈かといえば、舞台という空間が単なる再現(反復)のための場に堕してしまっているところだ。予め想像されたイメージなり段取りなりがあって、それを何度でも反復する。そのためにダンサーは徹底的に訓練する。しかし、もし反復不可能なところにこそダンスの面白さを求めるとしたら、それは「芝居」臭くなくて、何臭いのだろうか。それは「遊び」臭いのではないかと思う。「ルール」はあるが「シナリオ」はないのが「遊び」だとすると、振付はルールに相当し、予め想像された何かの芝居臭い(シナリオ通りの)反復はダンス的ではないと思う。ダンスが芝居ではなく遊びに接近する時、それが「ダンス」であることを観客にわざわざ知らせる必要はない。むしろそれは「ダンス」という芝居、虚構の設定を確立しようとすることでしかなく、ダンスなる現象の成否はあくまでも遊びの内容如何にかかっている。舞台の上で、想定されざる何かがその都度起こる、これがダンスの面白さであると思うし、振付というものはそれを目論んでなされるものだと思う。だからダンスは、スポーツ(純粋なゲーム)や、芝居とは違って、ダンサー同士のみならず観客とも遊べてしまう。何が起こるかわからない以上、ダンサーと観客との間にも「シナリオ」は前提し得ない。こういったようなわけで、ダンスの問題は「いかに見せるか」というより「いかに遊ぶか」なのであり、これへの執着(しばしば耽溺)は日本のダンスを十分に特徴付けているのではないかと思う。

*1:そういうことに対しては、おそらく長い間そこに住んで生きている人よりも外から来た人の方が敏感に反応する。それは対象を「客観的に」観察できるということでは別になくて、その人が普段どっぷり浸かっているハビトゥスとの差異に反応するということなのであり、したがって結局は、対象はどこまでもよそよそしい対象のままで、その代わりに何らかの比較考察を通じて自己反省を得ることができる、ということなのだ。