折れ

NYは東京のようにマチネが多くないからハシゴがなかなかできないのだが、今日は昼にまだ行ったことなかったPS122でパフォーマンスを見て、終わってからBAMへ行って明日のチケットを取って、いったん家へ戻り、軽く食事をしつつクイーンズのチョコレート・ファクトリーというところで別のパフォーマンスを見るという、ようやく東京でやってたのと似た感覚で動き回れた。
今日もまた動きの一切をコントロールし切ろうとする種類の「硬い」ダンスに行き当たり、それを見ながら、このような運動は人の身体において実に特殊なことであるなと思った。人の身体運動はむしろ通常、決して「主体」的な意志の統御になど貫かれていなくて、あらゆる物との関係の中で反応したり反発したり誘惑されたり衝動に駆られたりしながら、それとの適度な折り合いをつけつつ半ば意識的、半ば無意識的に進行している。その全てを意識化して何かの形態を作り上げること、つまり身体の運動をして隅々まで磨き込んだ「作品」に仕立てようとするようなことが、「ダンス」につながるとはとても思えない(第一、体もその動きもモノではない)。むしろ人の意志の統御の外にあるもの、様々な条件や不可抗力、こうしたものと何らか「折り合い」をつける多様な方法そのものが、強いていうならダンスの作品、あるいは発明なのではないか。つまりダンスを発明する人は、「折り合い」をつける方法を見つける前に、「折り合い」をつけねばならない何らかの不自由な条件、ままならない何ごとかをまず見つけ出す必要がある。どこに不自由があるか、何がままならないか、何が自分のコントロールの外にあるのか。この課題というか問いを設定し得る想像力が最優先であり、面白い問いさえあれば自ずと面白い答えも出るに違いない。自由の感覚ではなくて不自由の感覚、より正確にいえば、あらゆる自由の感覚を条件付けているはずの不自由、ポジの裏に張り付いているネガのようなものをこそ想像すべきなのだ。
この前東京から山口へ出かけたFさんが秋芳洞秋吉台へ行ったとのこと。あれは本当に思い出すだけで天地が逆さになるような思いに襲われる。意識は、物質から生まれた……理解できないというか意味がわからない。