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先日たまたま立て続けに「金(カネ)」をネタにしたダンスを二つ見た。Sara Juli 『The Money Conversation』、Daniel Linehan 『Anorexia, Failure, and Puberty』、どっちもソロで、別にダンスである必要はないような説明的な「パフォーマンス・アート」(レクチャー的な行為で客をいじったり、ホームレスを演じたりするなど)だといってしまえばそれまでなのだが、わざわざダンスを装おうとしている(どっちにも実に言い訳めいた「ダンス」シーンがある)以上、ダンスには何かそういった役割のようなものが求められ得る要素があると考える方が適切だろう。そしてその要請にこの二つの「ダンス」作品は全く答えることができないまま、不器用にダンスを装った無味乾燥な「パフォーマンス・アート」に終わってしまっていたのである。
なぜ彼ら彼女らはダンスで金を語ろうとするのか?それはつまり身体とその表現が、金との間である緊迫した関係に置かれているという意識を示しているのだろう。単純にいえば身体が買われてしまう、そしてあらゆるコミュニケーションが資本主義経済に還元されてしまうということへの焦りが、ダンサーをして金について語らせるのだと思う。しかしダンサーがこんな風に文字通り金について「語」って本業のダンスをお留守にしてしまったのでは、組合がストライキをしているようなもので、そもそもアーティストがストライキをしたって残念ながら誰も困らないどころか、面白がってお金が支払われてしまうかも知れないくらいなのだから、それは無意味なのだ。ダンサーは踊らなければ意味がない。しかもその踊りが金には還元されないような仕方で。
この文脈でクロソウスキーの「生きた貨幣」というアイディアは、それほどヘンではない。少し前に読んだ澁澤龍彦『快楽主義の哲学』が、固定観念にとらわれず性感帯をあらゆる部位に拡大し、「肉体の無差別なエロス化」を果たせば「つらい労働がすべて楽しい遊びになる。つまり、社会的に有用な仕事が、同時に個人の欲望を遠慮なく満足させる一種の快楽に転化する」(文春文庫、123-124頁)などと能天気に書いているのも、今やきわめてアイロニカルな形で実現してしまっているし、また当然これは「すべての欲望と快楽が搾取の対象となる」ことをも意味しているわけで、他方クロソウスキーの、身体を「産業的奴隷」ではない「生きた貨幣」にしてしまえという命題はずっと洗練され脇が締まっているように思う。つまり身体と身体の間に貨幣を介在させないため、身体そのものを貨幣のような媒介として流通させる。ここで重要なのは単に身体を金で買わないということではなく、身体を自分の身体で買う、さらには身体を脱所有化して流通させてしまうということだ。「他者の身体の所有と同様に、自分自身の身体の所有をも破棄すること〔…〕。倒錯者は、他者の身体があたかも自分のものであるかのように、そこに住みつき、そして自分自身の身体を他者に付与する。それはつまり、固有の身体が、ファンタスムの領域として取り戻されることを意味する。このようにして身体は、たんなるファンタスムの等価物となり、ファンタスムのシミュラークルとなるのである」(兼子訳『生きた貨幣』、青土社(新装版)、112-114頁)。
ダンスのダンスたる所以は単に欲望の対象がモノ(=作品)ではなくヒトの身体であるということに尽きると思われるから、ということは「生きた貨幣」とは「売春婦(夫)」のことであると同時に「ダンサー」のことでもあるだろう。ただ売春がほぼ必然的に相互的な身体の流通であり得るのに対し、ダンサーと観客の関係は一般的にいって非対称だ。この非対称性を可能にしているのが劇場(theatre>theaomai、すなわち行為とそれへの眼差しを分断する空間)であることは明らかで、ということは「観」客は常に抑圧された踊り手なのだといえる。ただしこの抑圧の事実はほとんどの場合忘れられていて意識されない。逆にいえばそれを意識させることこそ今日のダンサーの最低限の条件だろう。したがって金を意識するダンサーは金について語っている場合ではなくとりあえず踊り、それによって観客に体で払ってもらわなければいけない。つまりスペクタクルを回避しエロティシズムに執着すること。