今日スカイプを導入。IP電話がもうこんなに発達してるとは知らなかった。世界中の誰とでも無料で電話できてしまう。ヘッドセットを買いに出て気に入ったのが見つからなくて家に戻ったら聞き馴れない呼び出し音が鳴っていて、見たら家族からかかってきていて、とりあえず通話ボタンを押してみたらノートPCにマイクがついていたらしくいきなり通話できてしまった。パソコンから声がして、画面に向かって喋る。画面に向かって走ってくる汽車をよけたり、電話線に荷物を吊るして運んでもらおうとした昔の人たちのような気分になった。
稲葉振一郎『「資本」論 ――取引する身体/取引される身体』('05、ちくま新書)を読んだ。身体それ自体から「労働力」を腑分けすることで、何が本当に守られることになるのか…。「気休め」ではないと言い切ろうとしているところがスリリングである。一番ギョッとしたのは

形式的な法律上は自由人であっても、労働市場が逼迫していて、生存水準ぎりぎりの低賃金と悪い労働条件の下で働く労働者に比べて、豊かな社会において、優れた技能を発揮して重用されている奴隷の方が、安楽で幸福な生活を送っていることになることは、否定できません。古代社会の奴隷の中には、時に今日のサラリーマンより安楽で、ことによれば自由――とは言わないまでも気ままな生活を送っていた者が結構いたかもしれません。一般論としては奴隷制よりも自由な雇用労働の方がましでしょう。しかし自由な雇用労働が保証するのは、暴力や強制からの解放ではあっても、健康で安全な生存ではありません。(202-203頁)

というくだりで、この「健康で安全」な「奴隷制」をこの種の思弁の操作で受け入れてしまいたいというこの人の心理が生々しくて怖い。「労働力」を売って後に何が残るのか。経済的な主体か。『生きた貨幣』とパラレルに考えながら読めば、身体を脱所有化した後には無形の複数の欲望が残る(もっともクロソウスキーの話は基本的にどこまでいっても「単なる生存」から切れた「富」(過剰)の次元の話なのだが)。
今日ショーケースに行ったら「労働組合 The Labor Union」という名前のユニットの「Labor Union's Dance Work 1」という作品があったが別にどうってこともなかった。