昼にCさんと会い日本食屋でランチ。すごく久しぶりに鮪の刺身を食べられて嬉しかった。よく外国へ行って「日本食が恋しくなる」という決まり文句があり、そんなちょっと旅行したぐらいで恋しくなるわけないだろと思っていたが、二ヶ月経過したら本当に恋しくなった。一種の欠乏感みたいなもので、舌のこの辺りがずっと刺激を受けてない、あの味の感じをずっと味わってないということが、耐え難く感じられてくる。
ところで食(味や食感など総合して)における感覚的な所与は、それのシミュラークルを持たないのではないか。視覚に対応する絵画や写真、聴覚に対応する音楽のようなものを、食(=味覚としておこう)については想定できないように思える。味覚は常にそれ自体であり、味覚的経験の外にそれを定着しようとすることができないとしたら、それはどうしてなのか?
前から色んな人に言ってみているのだがぼくの味覚への意識が変化したのはダンスについて書く*1ようになってからだと思う。味覚自体は今でも相当ひどいとは思うが、味覚情報を分析的に把握するようになった。子供のころ『美味しんぼ』という漫画を嫌悪していたのはあのくどくどとした味覚情報の描写がなぜかたまらなく不快だったからなのだが、今となっては味覚的経験がドラマを含んでいるということは当然のように思える。それは、ねじれたり、厚ぼったかったり、まばらに散り広がっていたり、キンキン刺さって来たり、気づかれないように遠ざかっていったりする。こういうドラマを「味わう」ところに味覚的経験は集約されるだろう。そして食物とダンスに共通するのは、どちらも体の中に入ってくる、入って来た時点で初めてそれとして経験されるという点だ。目の前に置いてあるうちは、食物は味覚情報を伴わないし、ダンスは身体運動感覚(Kinesthesis)的な情報を伴わない。食わないと「それ」は「それ」にならない。つまり対象からの距離の無化という事情が、シミュラークルを制作することができない理由だとひとまずはいえるように思える。しかし、確かに一見、身体感覚もそのシミュラークルを制作することができないように思えるが、ダンスする身体は他の身体をそれのシミュラークルにするという特殊な仕方で、身体感覚のシミュラークルを作り出すのである。複数の身体の外には何も存在しない。感覚情報は身体から身体へと「飛び火」していく。そして同様の推論によれば、食物は味覚情報を人間の内部にコピーする。食物から人間への飛び火。ならば人間は食うことによって、その食物に「なる」のではないか。何を言っているのかわからなくなってきた*2
Cさんと別れた後ACCでピン・チョン氏を囲むお茶会。中国語の固有名詞が英語だと本当にわからない。「四川」などはぜひ Four Rivers と言ってもらいたい。KとJと初対面Bフロム・カンボジアとでタイ料理屋にてディナー。

*1:ただ見ているだけではたぶんだめなのだ。

*2:ところで今日パラパラと本をめくっていたら、ポストモダンダンス研究の第一人者であるサリー・ベインズ(Sally Banes)が、最初は新聞でレストラン評を担当していたと書いてあるのを見つけた。