今日は朝起きたらいきなり雪が降っていた。外が静かなのは日曜のせいだけではなかった。初雪。昼前に止む。夕方まで仕事をし、ワインを買ってKさんの家にお呼ばれする。ぼく以外全員ダンサー。Kさんの料理は美味くてしかも美しい。
昨日は夜までずっと仕事をして St.Marks Church へ出かけ、Cさんとそのヨガの先生であるSさんにお会いする。久しぶりに見た即興セッションは多くのことを考えさせてくれた。法(ルール)を措定しつつ維持しようとしない即興こそ、「究極」のダンスかも知れないと思った。これに対し振付けられたダンスは、法とそこからの逸脱がどこまでも「振り幅」としてのみ現れる。しかしいずれにしろダンスは法とともに生まれる。法を立てることで、法からの逸脱を準備するという矛盾を含むところに、ダンスのダンスたる所以があるのだ。
数日前に届いた『美術手帖』12月号を読んで、桜井圭介の「コドモ身体」論への違和感の根拠がはっきり見えてきた。子供や自然の運動はなるほど「ダンシー」だが、ダンスではない。子供や自然は法を立てつつそれを破るという回りくどいことはしない。ダンスは、(たとえどんなに子供っぽい身体をもっていようとも)紛れもない大人が、いかに子供や自然の「ダンシー」な運動へ接近するかという作為なのだ。だから「コドモ身体」が「子供のように純粋な」ダンスを踊る、という必然性はどこにもないし、正確にいえば本当の子供はダンスを踊ることなどできない。重要なのは身体がコドモか否かではなく、「子供のように純粋な」ダンスに至るための計算(=振付)の方だろう。こうして簡単な弁別さえすれば、例えばほうほう堂や手塚夏子が重要であり、黒田育世康本雅子がそうでないことは明らかになる。出てくるダンスはどれもダンシーかも知れないが、批評性を伴っているダンスと、そうでないダンスは区別できる*1

*1:「ダンシー」という質はあくまでもそれがダンスであるための条件でしかないのだが、その条件をもって既存のダンシーでないダンスを否定しようとするあまり、返す刀で、条件を満たすことをもってそのダンスの批評性と見なす、ということを桜井氏は「コドモ身体」論以前からずっと行ってきた。これは、ある時期には戦略的な有効性をもっていた。例えばボクデスについて書かれた「高く飛べばダンスなの?しなやかに脚を開けばダンス?じゃあ、これは?と、唐突に超スピードでカレーを「速食い」してみせる。すると観客は「オー!」。じゃあ、立派にダンスじゃん、違いますか?って。」という文がこれをよく示していて、ここにはカレーの早食いが「立派にダンス」であること(ダンスの条件をクリアしているということ)に一々驚いてみせるというパフォーマンスが見て取れる。しかし「至る所にダンシーな運動は転がっている」という事実を流布せんがためにこういうことを言わねばならなかった(実はこのロジックに従えば、高く飛ぶことはダンスであり、しなやかに足を開くことはダンスだということになり、もちろんそんなことは肯定できないので、カレーの早食いがダンスであるというテーゼは成立していないのだが)時期はもう過去に属していて、今やそういう認識のもとに何を打ち出していくかというところにまで争点は移動していると思う。にもかかわらず桜井氏は相変わらず「ダンシー」という条件と、ダンスという実体を区別しない。それゆえ批評的なダンスとそうでないダンスを区別できず、身体(「コドモ身体」)とダンス(子供のように純粋なダンス)を同一視して済ませてしまうことになる。