今日ふと気づいたが、米の炊ける匂いはたまらなく官能的だ。米の味よりも、炊ける匂い。鈴木清順宍戸錠にやらせていたのはこれなのだった。
小泉義之『生殖の哲学』('03、河出書房新社)読む。半分近くを占める第一章を読みながら何でこんな本がよく読まれているんだろうと思っていたが、後半、特に最後の第三章は面白かった。「障害者だけで暮らす社会」について。「人間」という枠組みを共有することもなしに、ただそれぞれに「ある精神的能力と、ある身体的能力と、そして、ある生殖能力をもつ生命体は、いかにして、どのような共生社会を実現しうるか」(115頁)。これこそ舞踏→コンテンポラリーダンスに伏在するポストヒューマニズムそのものではないのか。ただ、「人間の終焉」というのは常に「人間」サイドからの話でしかないのだという気もする。「障害を生きる人間に出会うと、スゴいと感じるし、カッコいいとすら感じる」(112頁)、こういう物言いはすごく微妙で、当事者にはとても言えない。「ふざけんな」と怒鳴られても反論のしようがない。インドネシアに行った時に、若い振付家たちが「バリの伝統」「ジャワの伝統」に固執しているのを見て、この「ナショナリズム」を否定するのは容易ではないと思ったが、それとパラレルな問題だ。文化は一種のセーフティーネットでもある。しかし、ならば「いかにして共同体を」ではなく「どのような共同体を」ということが観念的に問われねばならないと思う。