DTWへ行ったらまたKとJがいた。帰りにチャイニーズの店へ入って昨日のシェン・ウェイの話の続き。聞きそびれていたのだがシェン・ウェイが多用するあの螺旋形の動き(腕でも胴でも動線でも)は何か元ネタがあるの?とJに聞いてみたら、カンフーだと。ブルース・リーみたいな(?)力強い空手のようなやつではなくて、もっとしなやかに部位の軸を回転させるやつで、ちょっとやってみせてくれたのだが確かに見たことがある。関節を「折る」「伸ばす」ということは普通によく意識するが、この「軸を回転させる」ということが人間の動きを飛躍的に複雑にしている。「折る」と「伸ばす」は一定方向、反復性のものだが、それの軸が回転させられたり、あるいは回転する動きと同時に組み合わされたりして、動きが一定方向から解放され多様化してくることは、なかなか意識しづらい気がする。どこから始まってどこで終わっているのかもよくわからないし、中心も見えず、とらえどころがない。
シェン・ウェイが面白いと思う理由の一つは、彼が伝統か近代化(西洋化)かという二者択一を超えようとしているところだ。例えば上海歌舞団なんかは古典芸能を過剰化した演目の間にいきなりNDTみたいなのが入って来ていたし、Kによればクラウド・ゲートのベースは太極拳だという(それをアメリカのモダンダンス風に見せているのだろう)。マーシャルアーツや伝統舞踊を取り入れる人もアジアの振付家には多いが、ウェイは動きの原理とか語彙だけを分析的に取り出して自由に使ってしまう*1。この辺の話から、歴史的な文化とアイデンティティは別のものだよねという話に。エスニックだったりナショナルだったりする諸々の歴史的な文化に自分をアイデンティファイすることなしにそれを「使う」ことはいくらでも可能だし、むしろどんどんそうすべきだと思う。
またバリの、いわゆる「前近代」は無いんじゃないかということについて。観光客向けの演目とは別に内輪の宗教的な儀式があるわけだが、そういう排他的な共同体も実は排「他」的であるという仕方で外部にコミットしているのであって内部で自足できているわけでは全然ない。むしろ内部で自足できていると想像することによって外部を不断にシャットアウトしている。

*1:とはいえ『Folding』についてはKが、いかにウェイが中国絵画の約束事を「引用」しているかということを教えてくれた。中国絵画のことは日本美術史を勉強する時にその関係の範囲でざっと知っているくらいで、「魚がいつも二匹で対になって描かれる」とかそんなことは知らなかった。もともと画家であるウェイは絵画を三次元化するということをこの作品でやったのだった。Kはその完成度を誉めていたが、ぼくはそれを聞いてますますつまらないと思った。