アメリカ滞在も残り二ヶ月を切ってそろそろ帰国がリアルに思えてきた。10月からずっと同じ気持ちだが正直全然帰りたくない。別にもっとNYにいたいというわけではなく、単に同じ景色をまた見たくない。シンガポールからインドネシア、東京、NYへと忙しく移動したあの9月後半の二週間がいまだに忘れられず、ここからまた別のどこかへフラフラ流れて行きたいと思ってしまう。
それはともかく、歴史的な記録映像を見まくる一方で、現在のNYの舞台を見続けることの意義がこの頃見えてきた気がする。日本にいたら「カタい体」の一言で終わってしまったかも知れないようなバレエ寄りのモダンダンスに慣れ親しみつつ、デボラ・ヘイをはじめとして太極拳やヨガを取り入れた即興的なダンスが紛れもなく舞踏に近似してしまう事実*1に気づかされたり、あたかも孤立した特異な存在であるかに思えていたアルヴィン・エイリーの周囲または背後に広がっているアフリカ系アメリカン・モダンダンスという裾野を、ロナルド・K・ブラウンのカンパニーの超複雑だがファンキーで痛快な踊りっぷりによって垣間見たりした*2。デボラ・ヘイの新作の凄さは別格としても(流石の貫禄としかいいようがない)、ロナルド・K・ブラウンのダンサーたちの、アフリカンダンスのリズムから弾き出されるトリッキーな動きの面白さなどを見ていると、やはり動きそのもの(動きの可能条件だの、定義だのではなく)の魅力には抗い難いものがあるなと思う。
これに近いことを、たまたま先日アンサンブル・ゾネの2005年の『Nebel Land』のヴィデオを見返しながら考えていたのだった。舞台でも見たが、ヴィデオで見ても改めて凄いと思った。個々のフレーズ自体は至ってシンプルで、それが奇妙に込み入ったリズムで反復され、しばらくするとダンサーが入れ代わることによりあっけなく打ち切られてしまうのだが、一つの体がいくつかの部分に分けられ、それぞれが別個に動きつつ、体全体がそれらを一つに結びつけながら空間の中を移動していく、その動きの構成の多様さ、巧妙さは、今日本にこれだけのものを作れる人がいるのだろうかと思うし、NYのダウンタウンでやっているようなテクニック偏重のヌルいダンスの中にこれが現れたら一体どんなことになるのだろうかとも思う。観客におもねるような味付けも、小難しいコンセプトもなく、ただひたすら体の動きが練りに練られていて、その非情さにゾクゾクさせられる。ロナルド・K・ブラウンのダンスの熱さとは対照的な冷たさだが、火に触るのも氷に触るのも感覚的にはほとんど区別できないのと同じで、強烈な刺激は結局「痛み」みたいな、何か極端なところへ至るしかないのだろうと思う。

*1:外形から入るのではなく内感覚にフォーカスするところが、やはりある種の「東洋的」なアプローチなのだ。もちろんアジアでも古典舞踊などは外形から入るので、「東洋的」という言い方が妥当でないとすれば「非西洋近代的」と言い換えてもいい。メディテーションなど。「エクスペリエンス」(内的体験)。

*2:このアフロ・モダンの系列に、10月に見たブラジルのグルーポ・コルポを加えてもいいかもしれない。