原稿ができずまたうんうん唸っている。思えばこっちに来てからも原稿に時間をかけ過ぎて家にいることがあまりに多い。まだやりたいことがたくさん残っている。そんなこんなで、帰国を当初予定の3月20日から半月ないし一ヶ月ほど先に延ばすことにした。もうすぐブルックリンへ引っ越しする。
昨日はPS122へ行ったら、文化庁の研修で先日NY入りしたMさんにお会いし、さらにHさんにもお会いした。乙女文楽という珍しい芸能をフィーチャーした演劇で、奇しくも先日見た黒沢清の新作『LOFT』と色々カブッていた。終演後Mさんとサンライズへ行き、米を買って帰る。
今日は昼にE、J、Gとランチ。Jは日本語に訳された著書もある高名な舞踊評論家、Gも同じく評論家で、Eがたまたま同じアパートに住んでいるというので引き合わせてくれたのだった。お二人ともどちらかというとバレエがご専門なので、ダウンタウンのダンスの話はあまり通じず。その後二人のご自宅にちょっと寄らせて頂くと膨大な量の書物とCDが壁中の棚にみっしり詰まっていて羨ましかった。Jの本の日本語訳もあった。マーシャ・シーゲルが書いたトワイラ・サープに関する新しい本、マイナーな専門誌、エストニア振付家名鑑のような珍しい本など見せて頂いた。エストニアには本当にたくさんの振付家がいるようだ。聞いたこともなければ想像したこともなかった*1。夜はDTWへ行き、カレーを作って食べた。
ブレッソン『シネマトグラフ覚書』('87、筑摩書房)を読んだ。トーキー映画が発明したものは沈黙だとかいった名言の数々や、よく知られる「モデル」論(例えば極端なリハーサルの反復によって動きを自動化させる、無意識の癖や身振りを重視するなど、映画の演技論はやはりダンス論に接近する傾向があるように思える)、あるいは(蓮実重彦が小津論で戒めていたような「否定的言辞」そのものによって)あまりにも素朴に語られるために少々滑稽でさえある潔癖主義はさておき、撮影された個々の映像ではなく一つ一つの映像の配置、組み立てによって生まれる奇跡のような輝きが重要なのだというところが面白かった。撮影された映像は死んでいるのであり、死んだ映像と映像を特定のやり方で繋ぐと、息を吹き返す*2。つなぎ目にこそ何かが起こっている。

*1:ところで、他人の、外国に対する興味や知識の持ち方、距離感を垣間見るといつも新鮮で面白いと思う。JとGの目を通して知るエストニアは、自分の知るエストニアとは全く違っていて、しかも奇妙なリアリティがある。外国へ旅行に行った時、そこの土地の人がどこへ旅行に行くのかを知るのも楽しい。例えばモスクワの人はエジプトへ、ローマの人はクロアチアへ出かけたりするのだ。

*2:ちなみにクロード・シャブロルは「あれだけ長く手を映していれば手が印象深くなるのは当たり前」といったような発言をしたことがあるらしいが、少なくともブレッソンの考えているのはそれとは全く別のことだ。