地下鉄以外の交通手段を一切使うことなしに、引越し完了。往復する回数を減らそうとすると必然的に一回毎の荷物が多くなり、しかも大量の本を運んだため全身が筋肉痛になっている。
ちょうど渡りに船のタイミングで留守宅を借りることができたブルックリンの部屋は静かで落ち着く。街並みも美しく、物価がマンハッタンとは相当に違う。ダウンタウンから一定の距離を取ることで生活にもメリハリが出そうな気がする。
忙しい仕事の合間を縫って昨晩はキッチンへ行きパフォーマンスを見る。動物、それも死んだ、あるいは作り物の動物がたくさん出て、その中で「ワイルド」にはしゃぐ人間の身体たち。リヴィング・シアターとか60年代と何が違うのかといえば、おそらく「動物と人間」というフレームが違っているのだろう。つまりもはやデモクラシーではなく、デモクラシーの臨界点が問題なのだ。ダンスの作りとしては非常に浅く、その浅さをアートっぽい風情でごまかしているような感じだったが、そして日本のダンスの方が深くやっているように思ったが、コンセプトやベースとなる考え(人間と動物)は日本のダンスよりもはるかにしっかりしている。それにしても最近アガンベンの『開かれ』を読んで、コジェーヴハイデガー(あるいは東も加えていいと思うが)の考える「動物」は、少なくともダンスの文脈で思い描かれる「動物」とはかなり異質なものだと思った。前者には「荒々しさ」とか「獰猛さ」「非合理性」というものが感じられない。ダンスにおける「獣」性とはしばしばこういうものを指していて、他の動物の体温に反応して木から落下するダニのようなオートマティックな機械は、むしろクライストの描いた人形に近い。あの人形は、「放下」であり「レッセ・フェール」的なものだろう。土方のいう「飼い馴らされた」体というのも、むしろこっちかも知れない。他方で土方のいう「獣」には、単に与えられた条件に対する反応を超えてしまうもの、過剰な「力」のイメージが託されている。そしてダンスの非人間的な快楽の質というものがあるとすれば、それはこれだろう。だから今ダンスは、「動物」という世界的に喫緊のテーマとの間で微妙な関係にある。というより、ダンスにおいてしばしば語られるそれは本当に「動物」なのだろうか?動物が、与えられた条件に対する一定の反応を超えてしまうということは、実はあまりないように思う。一切は動物における「合理」性の枠内に収まるのであり、その厳格な「合理」性が人間の目には「野蛮」と映るのだ(痴呆症の老人や、自爆テロにメンバー登録する人々の発する言葉がそうであるように)。しかし本当に「合理」(理に適ったこと)を外れ、真に「野蛮」になれるのは(踊る)人間だけなのではないか。この意味での「非人間的」なものを、「動物」的と呼ぶのは得策ではないだろう。
そうなるとたった今書いたように「痴呆症の老人」と「自爆テロ犯」を一括りにする仕方も疑わしくなってくる。前者は確かに、限りなく「動物的合理性」の圏内にあるように思えるが、後者はある意味で「踊って」いる。つまり人間特有の過剰な「力」の発露としての「人間的非合理性」に属するだろう。すると「動物的合理性」「人間的非合理性」の二つが、「人間的合理性」に対置される。「人間」の中に合理と非合理がある。アガンベンの議論では、動物と人間の境界が人間の内部にあるというわけだが、共存しているそれは人間的および動物的な合理性だけで、人間のみに可能な「人間的非合理性」(=ダンス)は問題にされていないように思える。ダンス的状態というのは動物のように合理的ではなく、だからこそそれは「善」でも「悪」でもない両義的なコミュニケーションの場(例外状態)たり得るのだ。むしろアガンベンの議論では、動物の「放心」と酷似しつつ異なる人間の「倦怠」が語られる。アガンベンはこれを「人間」の条件を取り出すためのハイデガーの「形而上学的操作」と語っているのだが、これと「過剰な力の発露としてのダンス」は、外見に反して実は同じものなのではないか。