仕事で忙しくしてしまい、ブルックリンに越してから初めてランドリーに行った。広くて、皆ゆっくり雑誌など読んで待っていたりした。オーナーらしきアフリカ系の中年の女性に何か聞こうとした時、たまたま彼女がラジオに耳をすませて何かの情報を注意深く聞き取ろうとしているところで、その表情が妙に心に残った。余計な音を出してはいけない、そして目も何かを見ることをやめている。ただ微かに肯くような感じで首を上下させながら、腫れ物にでも触るかの如く、雑音の中から選り分けながらある一つの音声に意識を集中していた。無防備さと、必死なまでの繊細さ。出入口の脇にヴィデオゲームの筐体が一台あって、懐かしい感じの縦スクロールのシューティングゲームのデモが映っていた。今のヴィデオゲームがどんなになっているのかもう全くわからないが、これは少なくともぼくが知っている時代のもので(中学生の頃ゲーセンに入り浸っていたせいで視力が落ちた)、といっても骨董品と呼ばれるほど古いものでもない。ポリゴンではなくてスプライトで動かしている、アイテムを獲ってスピードアップして武器も果てしなくパワーアップして終いに巨大でカタいボスキャラが出てきて馬鹿みたいな勢いで多方向に一斉に弾をブワッと出すのをよけまくりながらひたすら連打していると突然勝てるという、ある時期の王道のパターンで、50セントならやってみたかったが、やり始めたら夢中になってしまうので、恥ずかしいのでやらずに、乾燥機を回しながら遠くからボーッとデモを眺めていた。画面の切り替え方とか、弾の光り方とか、あらゆる物の動き方に、この種のゲーム独特の様式美があって、そのほとんど一つの「言語」とでもいうべきものも、ゲームに興味のない人々にとっては何の意味もなさないんだなあと思いながら、似たような例として、最近なぜか思い出される80年代前半の歌謡曲のことを考えていたりした。この記憶の逆流現象は、部屋の窓から西陽が射し込むのを眺めていた時にふとテレサ・テンの『つぐない』の冒頭が脳内に流れてきたのが始まりで、歌詞がスルスル出てくることに驚いたのだった。それ以降、毎週ベストテンで見ていたような歌、島津ゆたか『ホテル』とか、梅沢富夫『夢芝居』とかがグルグル渦を巻いている。あの頃は家族で歌番組を見ていた。そしてだんだん「ニューミュージック」とか「洋楽」っぽいものとか流行ってきて、バンドブームになって若い人たちが出てきた。中学に上がると周りは皆BOOWYとか渡辺美里とか永井真理子とかが好きで、ぼくはそういう音楽の(主として単に若いがゆえの)軽さ、薄さ、騒々しさに全く関心が持てなかったのだった。なかにし礼の「電話をかけたら叱られる/手紙を書いてもいけない」なんていう出だし(しかも男が歌ってる)、こういう語り口の素晴らしさ*1が、ゲーセンでしか人の目に触れられないヴィデオゲームの「言語」の厚みとダブるのだった。
家のネットの環境がまだ整っていなくて、それが割とストレスになっている。月曜のレクチャーの準備も終わっていないし、月初めから行く旅行の手配がまだ何もできていない。とはいっても最近書き上げた原稿のおかげで気分は良い。舞踏とコンテンポラリーダンスをつなげ、歴史観とセットになった理論的枠組がようやくできた。これをやるために、日本から距離を取るためにアメリカに来たのだから、所期の目的は達成されたといっていい。アメリカに来て、アメリカのダンスを見続けていなければ、ここまで割り切って書けなかったと思う(ただし今度は、この理論でもって対象を歪めたり、自分のダンスの見方を規定してしまわないように注意しなければならないのだが)。原稿自体はドイツの雑誌向けに書いたもので、日本語で出すにはやや違和感があるものの、手直しをしてどこかに出したいと思う。最初に日本語で書き、それを英語に訳して、編集側でドイツ語に訳してもらうのだが、日本語の文章よりも英語の文章の方が、ヴォキャブラリーの少なさが幸いしてか文が締まって明確になっている気がする。

*1:謡曲の歌詞が、いかにポリティカリー・インコレクトかなんていう判り切ったことを言い立てる前に、それがどんなに素晴らしい、価値あるものかを語らなければ、それが多くの人に支持され、そしていかに人々の思想をますますポリティカリー・インコレクトな方向に駆り立てて来たかを本当に語ったことにはならない。「政治性」を標榜するほとんどの「批評」は、ただそれが社会的な事象として成立しているからという理由で、それを標的にする。対象への愛ではなくただ「批評」めいた言説を弄する自分への愛に駆り立てられて、自分ではない何かの対象について語るのはかなり重度のフェティシズムだと思う。好きでもないのに語るどころか勉強したり、研究したりまでする。