ショートケーキを見て「イチゴが大きい」とか「イチゴが美味しい」と言ったり、というかそもそもケーキを食べようとする際にフルーツタルトなどを選び、しかもフルーツタルトだけにフルーツが気前良く大量に乗っかっていた方が良いと考えたりする、そういうことがぼくには全く理解できないと前から書きたくて、ようやく日記を書くまで覚えていられた。あるいは蕎麦屋に入って天丼を食うのなども理解できないが、百歩譲って、天ぷら蕎麦を頼んだとして、そこで「エビがデカい」と喜ぶことの不可解さ。エビが食いたければエビを食えばよいのでありわざわざ蕎麦を下に敷く必要はないし、大きなイチゴが食いたければわざわざケーキに乗せる必要もない。しかしそれが単なる目前に迫った食物への興奮と期待からする感嘆詞みたいなもので、別に本当にイチゴやエビの大きさにだけ感動が集中しているのではないのだとすれば、それは、甚だしく的を外していることを承知しながらも構わず目に映った事実を端から言語化してしまう一種の特殊な、微笑ましき興奮状態を示していると捉えるべきなのかもしれない。これに比べると、美味いものを食べて「体に良さそう!」などは徹底して素直さを欠いている。体に良いから何だというのか。そんな風に食物を誉めて、物に向かって卑屈になって、どうするのか。
今日は午前中はずっと西海岸とほぼリアルタイムでメールのやり取りをして、午後からリンカーンセンターへ行き、Complexions をチェックした。Evidence(ロナルド・K・ブラウン)と似た系統と聞いて興味を持っていたのだが先日のNY公演は忙しくて見られなかった。完全にフォーサイスの『イン・ザ・ミドル〜』を(ショボく)パクッたのが出てきて気落ちさせられたりもしたが、徐々にアフロっぽく、というよりファンキーになって来て、一応納得した。しかしバレエの堅固なベースにヒップホップとかストリート系の動きを混ぜているだけで、あまり面白いとは思えなかった。Evidence をもう一回見返して比べてみたいと思ったら時間切れ。しかし時間さえあれば比較できるのだと思うと本当にここは素晴らしい施設だ。ジュリアードの書店と、近くのバーンズ・アンド・ノーブルズを漁ってアフリカ系モダンダンスの本を二冊買った。公民権運動以前と以後では、アフリカ系アメリカ人カルチャーのイメージがガラッと変わる気がする。端的にいって「カッコいい」もの、憧れの対象にすらなる。その境目に位置するのが、モダンダンスでいえばエイリーなのだろうか。あとアンナ・ハルプリンに関する手頃で良さそうな本が見つかりゲット。
ジョイスへ行ってテロ・サーリネンを見た。水曜なのに珍しくほぼ満席に近くなっている。サーリネンは4年位前にJADEでソロを見た時は割と好印象だった気がするのだが、正直期待が外れた。ドライアイで目と頭が痛くて、目頭やこめかみをゴリゴリやっていたら隣の人に「疲れてるね」と言われた。
帰りに前に住んでいたアパートの近くを通ったのでいつものチャイニーズでいつものメニューを食べた。ここの店の味はパーフェクトであり、それはつまり店のオーナーの味覚=taste=趣味と、ぼくのそれがフィットしているということを意味する。似た「趣味」をもつ者同士のつながり。彼の味覚から、ぼくの味覚への訴えかけ。こういうことを考えるといつも思い浮かぶのが『未完成交響楽』('33、ヴィリ・フォルスト監督)という映画で、この中に、シューベルトが『野ばら』のメロディを思い付いてピアノで弾いていると、それを聞いた誰かが口ずさみ、それがまた誰かに伝わり、という風にして町中に広がっていくというシーンがある。モノじゃない、感覚が伝播していく、こういう出来事が、良いなと思う。上野俊哉が『アーバン・トライバル・スタディーズ』で、こういう風にダンスが伝染していくことを「模倣」という概念で語っていて、この「模倣(ミメーシス)」はおそらくかなり面白い論点になると思う。最近たまたまベンヤミンの「模倣の概念について」を読んでいたらいきなりそれはダンスの話だった。「自然はもろもろの類似をつくり出す。動物の擬態のことを考えてみさえすればいい。類似を生み出す最高の能力をもっているのは、しかし人間である。類似を見てとるという人間の才能は、似たものになるように、また似た振舞いをとるようにと強いた、かつては強大であった力のその痕跡にほかならない」。「子供の遊びには、至るところに模倣の行動様式が浸透していて、それが及ぶ範囲は、ひとりの人間が他の人間の真似をするということにとどまらない。子供は店のおじさんや先生の真似をするばかりでなく、風車や汽車の真似もする」。そして類似を生み出す諸々の活動の内の最も古いものの一つとして「舞踊」が出てくる。バレエ史ではマイムがよく槍玉に上げられたりするし、今となっては模倣とダンスは最も遠いもののように思われていると思うが、そういう時には必ず視覚的な類似性が前提とされているのであり、マイムもマイムならそれを批判する方も全く同様に、スペクタクル(視覚性)にとらわれている。それに対し、ベンヤミンのいう「模倣」は、自然や事物との感応(コレスポンデンツ)が、「言語以前」に、「内臓から」行われるという時の話で、これは、上野も言っていたように、別にコピーがオリジナルに似ているかどうかは差し当たり問題にならず、ただコピーする(模倣する)行為自体が意味をもつような行為なのだ。人々が人々をコピーしてコピーしてどんどんズレていく。ただし最初から「ズレていく」と考えていたのでは「コピー」にならない。コピーしているつもりなのにズレていく、ズレていくからますますコピーする、というようなイタチごっこだろう。