今週立て続けに二度も、終電を逃してタクシーに乗り散財するはめに。そもそもなぜ終電なんかあるのか?なぜ全市民が一定の時刻に自宅へ戻らなくてはならないのか?しかも、ようやく最寄り駅の駐輪場までたどりついたら街灯が消されて真っ暗になっていた。以前はこんなことはなかったと思う。節電か、あるいは近隣からの苦情があったのか、事情は知らないがハンパじゃなく危険。誰か潜んでいたら簡単に殺られる。肝を潰しながら真っ暗闇の中をうろついて急いで退散した*1。しかし終電の後の駅でみんな長い列を作ってタクシーを待っているが、少し歩いて駅から離れれば、駅へ戻って来る途中のタクシーを捕まえることができる。運ちゃんの方も長い列の最後尾につかずに次の客を拾えて幸せだ。チョロい。
さいたまの videodance 二週目。この企画のセレクトはあからさまにフランス(バニョレ、アヴィニョン)を軸にしたマッピングに、日本のダンスを足しているわけだが、今さらながら、ヨーロッパではやはり演劇との垣根が低く曖昧で、「ダンス」として面白いものに出会う確率はかなり低いように思う。70年代にアメリカのダンスがフランスに受容されていった際、フランスの演劇人が重要な役割を果たしたことがずっと尾を引いているのだと思うが、ダンスそれ自体がそれとして肯定されることはあまりないのではないかとさえ感じられる。ダンスは何かの演劇的な表象に従属させられて、舞台を構成する様々な要素のうちの一つに過ぎなかったり、あるいはダンスについての批評的な言説や注釈にくるまれて提示されたりすることが多く、そのわりにダンスそのものはあまり新しいことはやっていない。今のNYも大体これと似ている。ぼくがあまりにも毎日ダンスばかり見ていると、「一つのところにこもってないで、もっと外に出て色々なものを見たら」と言われたりもしたが、ぼくはそれなりに「色々なもの」を散々見たり聞いたりして生きて来たわけで、その「色々なもの」がイヤになったところへ全く異質なものとして「ダンス」を見出したのであって、「もっとギャラリーとかライヴとかにも行けば」とか「ダンスは美術とか他の色んなものとつながってるんだよ」とか言われる度に、「そうやってあれこれ『ダンスの外』に手を出す前にあなたは『ダンス』をきちんと見ているのか考えているのか」と、堂々と、というかむしろ横柄に、反論した。もちろん見ていないし考えていないから、新しいダンスは出て来ないで、通り一遍の「ダンス」の記号を使って何か表象してみせるといったレヴェルに終始してしまうのだ。しかし日本でも90年代前半くらいまでは、まだこのヨーロッパからの波のインパクトが強く、様々な舞台表現の中から「ダンス」というカテゴリーが独立したものとして分離して来たのはここ最近の傾向ではないかと思う。「演劇」から「ダンス」へと向かう流れ、「意味」から「感覚」へと向かう流れは、「意味から強度へ」みたいな文化の流れと明らかに相即している。ただ感覚には、単なる「強度」に尽きてしまわない「論理」があるのだということが示されなければ、ダンス=強度ということで終わってしまう。それでは結局「表象」屋さんのパラダイムを裏から支えてあげることにしかならない。

*1:その一方、何か忘れたが健康食品かドリンクのCMで、体の中の余分な脂肪とか有害なものをキレイにするとか謳いながら、街中で巨大な着ぐるみのキャラクターが警察官に連行されている映像を見てショックを受けた。こういうメタファーをここまで無神経というか、無邪気に用いてしまうその愚劣さを、「バカだな」と笑っていることはできない。犯罪的に「馬鹿」である。