麿赤児村松卓矢、『激しい季節』第10号より。
麿、「[大駱駝艦のWSについて]昔はどういう人が来てたんですか、一般の人ですか」という問いに答えて:

学生もいたけど、今でいえばニートだよね。無為徒労の輩だよ。何もしたくない連中。だからといって無気力ではないんだ。政治というものにもう少し夢があった。やっぱりそれは若者の特権だしね。正義、ウソつかない、清く正しくいい政治とかっていうのはあまりみんな信用してなかったんだよな。信用してない連中が来る。どうせどっかでウソつくしかないんだ、みたいな。今でもそうだと思うよ。オウムはずっと後だけど、オウムなんかにいくのも、そういうところあると思うんだ。選挙でいえば、浮動票だよな。どっちに入れていいかわからないのと同じで、どっちに入れてもしょうがない、どっちにいってもしょうがない。それはボーッとしてるというんじゃなくて、逆にいえば、わかろうとしてる奴じゃないかと思うんだよな。右行ってもおかしいし、左行ってもおかしい。どっちも行けない。そういう時代はあったよね。今でもあるよ。人間ていったい何なんだろう、ポツーンと思う、漠然とながら思う人っていうのは、今、必要になってきてるんだ。
まあ、震えるように立ってる人達だよ。俺たちみんな舞台でビビビビビビッと震えてる。あれがすごいエネルギーになってくる。何で震えるのか。わかんないからだよな。磁石のプラスとマイナスはペチャッとくっついちゃうけど、どっちにもいけない、プラスにもマイナスにもいかない。ビビビビビビッと震える魂。[…]やっぱり何も信じられないという感じがあると思うんだよ。なんかどうもうさんくさい、というさ。ただボーッとしてるというんじゃない。もちろん一方の見方をすればだらしないとも見えるし、働け、何フラフラしてんだよ、とか。フラフラフラフラ、ということがひとつの条件だろうな、特に踊りはな。[…]何かにピチャッとくっついてしまえば、ある意味で楽なんだけど、なかなかくっつけないでいる。それは、将来踊ってくしかないんだよな。

村松

[…]舞踏のヨーダはな
ひたすらに「バカになれ」って云うんだ。
[…]
ラウシェンバーグについて]ほら、こんな風に壊れた家具や古い写真や烏の剥製とか普通は捨てるようなゴミを画面にだな・・・・
そんでもって、絵具と同じように使っちゃうわけだ。日常じゃあもう使えないものなんだけどね。
すでに古くて、汚いからね。
しかしながら、こうなって張り付いてるとなんとも素敵じゃないか。
だいたい、君たちの今の状態も日常じゃ困りモンだけど、
さしあたり、ゴミが絵に貼りついたみたいに、君たちもドコカに貼りついたら良いかもね。
いわば、「日常を生き抜く」という主人から見放された、身寄りのないゴミになっちゃったけど、
まったくもってセイセイするよね、
もうご主人様の言う事を聞かなくていいんだから。
とどのつまり、生きなくて良いってことなんだから!
いちがいに、開放感みたいな感じでもないけどさ。
しかし、俺たちってご主人様いないとホント何にもしないんだね。

再び麿(鎌田東二の文章から重引):

変なものを生んだ力、妖怪Xをね、呼び出すんだ。怪異、異形、化け物でもいい。神さまにも化け物にもはたらいていただいて何でも取り込む。近代になって化け物の依り代がなくなった。そこで『天賦典式』を行う。するといろいろなカミさまが来る!