競技ダンスから大野一雄のところへいったという経歴が面白くて、前からずっと見てみたいと思っていた、ひびきみかさんの踊りを先日初めて見ることができた。最初は確かに「珍奇」なものへの(浅い)関心があったが、今やもうスタイルというか、振付のためのアイディアとして社交ダンスを取り入れたコンテンポラリーをNYでたくさん目にしたし、はたまたアルゼンチンでは「タンゴ舞踏」というものがそれなりに流行っていると知ってしまったので、ひびきさんがもっと個人的な動機で、ジャンルやスタイルには収まり切らない何か「ダンス」の核のようなものを探して行っているのだということが一際よく感じ取れた。それで後日、直接お話しする機会があり、ひびきさんが、歳をとったダンサーが骨で踊っているのに憧れるというので面白かった。(ひびきさんの話を正確に再現できているか分からないが)歳をとると表層の筋肉が衰えるので、若い人がガンガン暴れ回ったりするのとは違い、深層の筋肉でミニマムというか、無駄のない動きをするようになる、というようなことらしい。日本舞踊で、老いてますます踊りに味が出るということがあるが、こういう解剖学的な説明がされると、「人生の積み重ね」とかそういう物語的な回収の仕方とは違った、はっきりとした回路が新しく目に見えて来て興奮してしまう。黒沢美香のWSでよく「骨だけのバレエ」と書いてあって、何で骨なんだろうと思っていたが、こういうことなのかも知れない。
ポストモダンダンスのことをあれこれ調べていて、ダンスを考える際に単に「動き」のことを抽象的に考えている人と、動き以前にそれを成り立たせる「体」のことを考えている人とがいるという風に考えるようになった。前者はやはりコンセプトとかアイディアといった表層に流れやすい。一見似たような、集団でグチャグチャやっているようなパフォーマンスでも、グランド・ユニオンとアンナ・ハルプリンとでは運動の質が明らかに違っていて、それは要するに意識が感覚にフォーカスしているか、観念にフォーカスしているかの違いなのだろう。
ひびきさんと話をした後、日野晃/押切伸一ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』('05、白水社)[amazon]を読んで、やはり面白かった。武道とか武術の本は、ダンスの本よりも、体のことを具体的に書いてある。武道や武術に関しては、ぼくは甲野善紀の動きをテレビで見て興味を持ち、本も何冊か読んでいたが、安藤洋子の関係で知るようになった日野晃については正直なかなか興味がもてなかった。それは日野が「教育者」としてのステータスに全く照れを感じていないように見えるからで、例えばあからさまに人にノーを言ったりするところが、甲野の探求の精神、実験の精神とは程遠いと思われた(安藤のショーイングも何だか新興宗教みたいな雰囲気があった)。そしてその裏返しに、フォーサイスが「世界のトップ」だと言われれば、自分の目で確かめてもいないのに認めてしまい、迎え入れられたことを自慢し、さらに返す刀で「この素直なトップクラスのダンサーたちに比べて日本人は」と揶揄してしまうところなども子供っぽい。だからこの本も、日野の武道に興味があったわけではなくフォーサイスだからという理由で手元に置いておいたのだった。実際、最初の半分くらいは、やたらに「!」マークとか「感動」「深い」「凄い」「素直」とかいった単語が連発されていて辟易した。日野の考え方の根本にあるらしい、相手の体を「感じる」ことで「つながる」というテーマも、コンタクトインプロとそんなに違わないような気がしたし、また動きではなく体そのものを感覚するということを教わってフォーサイスが驚いているのなども信じられないように思えた。ダンスをやっているのだからそんなことは当たり前じゃないのかと思った。
しかしフォーサイスの、「日野さんは『対立してはいけない』とずっと言い続けている。精神的な本や宗教的な本ではいくらでもあることだけど、実際にあるとは知らなかった。そして、その対立しない方法を私に提示してくれた。実際に見させ、感じさせてくれた」(pp.104-5)というのを読んだ辺りから、具体的な記述が急にリアリティを伴って来た。日野の場合、例えば相手が攻撃してきた時に、その相手の動きに逆らわないで、むしろ同調して、一体となりながら相手の力の方向を変えてしまう、ということのようだ。だから日野は「相手を感じることなしに動けば、殺される」というのだが、それに対してフォーサイスは「ダンスでも同じだ。たとえソロでも、自分勝手に動けば、観客の目によって殺される」という(p.191)。確かにぼくも、真剣の殺し合いのようにしてダンスを見ているつもりだ。しかも「殺し合い」を、対立ではなくて同調という関係の相の下に見た時には、これはもはや比喩ですらなくなる。ダンサーの身体と観客の身体が関係を結ばなくてはダンスは成立しないし、そしてその関係はともかくも同調であるほかはないだろう(もちろん同調を前提とすれば、その否定形として非同調という関係も起こってくる。ただし、逆はない)。「同調」というと、「同化」とか「鏡像化」と混同されやすいが、むしろ非連続だった体と体、意識と意識が「連続する」ということではないかと思う。同調し連続することによって対立が消える。衝突という形で顕現していた二つの力のヴェクトルが失われる。特定の力のヴェクトルというもの自体が消滅するということは、逆に、あらゆる潜在的な力の方向が一挙に解放されてしまうということでもあるだろう。こういう、目的性にとらわれた意味から自由になってしまうことを日野が考えているところが、すごくダンス・オリエンテッドだなと思う。
日野と甲野を比較してみようと思って、すぐに甲野善紀/田中聡『身体から革命を起こす』('05、新潮社)[amazon]を読んでみた。甲野は、日野のように決定的な「答え」を出さない。その意味で探求者なのだが、しかしその代わり、目的ははっきり設定する。ある特定の運動について、固定観念を破ってより効率的、効果的な動き方を探すのであり、新しい技の開発は「電化製品が進歩するのと同じようなもの」(p.54)とまで割り切っている。だから「殺し合い」においても、いかに強くなるかが問題であり、常に相手を上回る効果的な攻撃と防御を求める。甲野に特徴的なのは、「捻らない」「タメない」などのように、無駄な動きや予備動作を消すことにより、相手の(固定観念と化した)身体図式をはぐらかし、隙を突いて倒そうとする点で、特に重力の作用(自重や相手の体重)を活用した奇抜なメカニズムを多く編み出している。敵対する二者の、対立の軸を一方的にズラすことで、自分にとって負荷となっている力を効果的に処分する、という形で問題を「解決」するのだ。
初めて甲野の動きを見た時、とにかく異様で、いわばダンスを見るのと同じ目で惹きつけられたのだが、じゃあ甲野の武術はダンスの論理とどんな関係があるだろうかと考えるとよくわからなかった。山田うんは、甲野の動きに予備動作がないところに自分のダンスとの共通点を見ていて、「観客が前に進んでくるんだなと思ってるところを横に行くというふうに、心理を裏切ることができます。それが楽しいんです」(p.158)と言っている。こういう「関係」の作り方はいかにも山田うんのダンスだなあと思うけれども、甲野の探求と、山田うんの探求とは、それぞれの行き着いた結果が近いのであって、プロセスの面ではやや疎遠な気がしてしまう。他方の日野は、武道の動きの開発の局面において「面白さ」を強調する。「日野にとって“面白い”とはスリリングで予想を裏切るような出来事が起こることであり、その“面白さ”を作り出せなければ殺されるのが武道であると考えている」(p.80)。ここに武道とダンスが相互に融和してしまうポイントがある。たかだか一個の身体と身体に過ぎないもの同士が互いを消し合うという行為の卑小なヴェクトル(対立軸)が、「面白さ」を媒介にして方向付けを失い、力と力の合力があてどもなく、所構わず迸ることになる。これは個人が殺されたり、殺したりすることなどよりもはるかに恐るべき、巨大で、圧倒的な「無意味」(non sens=無方向)の力ではないかと思う。