もともとテレビはあまり見ていなかったけれども、NYから帰ってきて、前は『テレビ・ブロス』を買っていたんだっけなどと思っているうちに、もう意識的には全く見なくなってしまった。とはいえ何となく点けてしまうと、そこで行われていることのばかばかしさはもうちょっと耐えられるものじゃない。ニュースでもクイズ番組でも、何かある事実を伝えようとしていながら、その信憑性を確保しようという意思が全くない。なぜそれをそのように言えるのか、他の色々な可能性がどうやって否定されて、あるいは色々な検討がどうやってなされたのか説明しないで、ただそうなのだと言われる。クイズ番組では解答者が次々と脱落していき、最後に最も賢そうな解答者までもが不正解という結末を迎えた後、その問題の答えを結局視聴者に教えてくれないということすらあって驚くが(問いはゲームのための形式であって内容は別にいいのだ)、ニュースやワイドショーでは、事実は論証抜きに伝えられ、その代わりに感情的なムードの演出がその報告を正当化しようとする。こうやって散布される感情的なムードが、誰のどんな意図でコントロールされているのかが怖いが、「論証より感覚」という前提が行き渡っていればそんなことも暴かれようがないのかも知れない。けれども検証を受け付けない、反省され得ない「感覚」という観念は、いってみれば味わい得ない「味」(ニュアンスを欠いた味覚刺激)のようなもので、実際に味を味わいから隔離しているのはそれぞれの味に対する固定観念(紋切型)だろう。だから東浩紀のいう意味での動物化は、実際に人々が動物化しているのではなくて「動物」(感覚)というイデオロギーに馴致されているということなのだ。感覚は「理屈抜きにわかる」ものだけれども、理屈以上にややこしくてレトリカルなものでもあって、例えば何かを口に入れて「美味しい」と口走る前にちょっとでも味わってみれば、もう何だかわからない。
甲野善紀/田中聡『身体から革命を起こす』('05、新潮社)[amazon]のテーマは、スポーツとその言説が、体を固定観念で縛って自由な運動の可能性を抑圧していることへの批判だったが、昔の飛脚が今では信じられないスピードで走っていたとか、あるいは古武術に関するほとんどSF的な記述をあえて真に受けることで、体の潜在的な力を探ろうとする甲野は、体を固定観念から解放すると同時に、古武術も「古武術」という固定観念から解放している。古典と呼ばれるものは、たいてい無闇にリスペクトされるか敬遠されるかで、真に受ける人はなかなかいない。学校の音楽の授業で教えられる西洋クラシック音楽なども、たいてい生徒はバッハにヒゲとか書いて、結局権威へのアイロニーを学ぶだけで終わるが、凄いものの凄さを真に受けていない(主観的に判断していない)先生の授業は全く時間の無駄としかいいようがない。少し前からクセナキスなど現代音楽を(理論的にも記号消費的にでもなく)「感覚」的に聞く再評価が流行しているみたいだが、中学生でもクセナキスを聞かされたら普通にビビるだろう(そこから広げていけばバッハの凄さを真に受けることになるかも知れない)。
バングラデシュ系イギリス人であるアクラム・カーンがカタックの読み直しをしていたり、シェン・ウェイが京劇の動きの読み直しをしていたりするのも、感覚的なものが物語的ないし理論的な文脈を解除される傾向に棹差していて、歴史へのスタンスがポストモダニズム(引用、パロディ)とは明らかに違って来ている。先日インドのダンサー/振付家の方と話していた時、もはや世界的に「発展」や「成長」という観念が無効化しているという話になった。しかしいわゆる「歴史の終わり」というやつがポストモダニズム的な戯れにおいて最も顕著に反映される現象だったとすれば、記号的消費の不毛さに倦んでしまった今、感覚的な強度に人々の関心は向かっていて、そんなわけで古典を物語的な文脈ではなく強度において再評価するということも行われているのだと思う。