昨日は有楽町で池田亮司のコンサート(?)。前に京都で見たのと比べると空間が漠然と広がっていてインパクトはイマイチだったが、「意味」を消去しようとする行為の意味、「非人間的」なものへの憧れの人間臭さについて考えさせられた。マレーシアから来ているFと会って食事、シンガポールでいわゆる前衛的な演劇といえば政治や社会の問題を扱っているのが当然で、「知的」な観客はそういったものをともかくも好むのだが、日本では全くシリアスでないポップな表現の領域で、芸術的にみて革新的なことが起こっている、という話。政治や社会問題を取り上げていかにも「知的」っぽく見えるけれども実際はスタイルとしての前衛を(「美学的」に)なぞっているだけ、という系統が一方にあり、他方にひたすら形式でもってラディカルに魅力的にふざけ倒すという系統がある。こういう状況ならばむしろ「政治」を語るにしろ「美学」を語るにしろ、形式の遊戯の系統の方に分があることは否定しようがない。アジアの演劇で絶対に外せないと考えられているのが(文化的、政治的)アイデンティティという主題なのだが、日本では驚くほどこの主題への関心が低い。単一民族ではないといっても日本人はやはり「均質」だからとFは言い、まあ少なくとも意識の上で「均質性」が優位を占めていることは確かだろう。例えばアイデンティティの問題がこうして影を潜めることで、「純粋」な形式の遊戯に執着することが可能になっている面もあると思う。しかし例えばチェルフィッチュの、役柄から切り離された俳優の身体(誰でもあり得るがゆえに誰でもない、これはラクー=ラバルトが『近代人の模倣』で論じているディドロの俳優論にも通じるし、土方巽の考えた身体(三上賀代『器としての身体』)とも似ている)などといった驚くべき形式は、確かに「美学的」に見てラディカルであり、『目的地』において人が平然と「猫」を演じてしまうまでに至るのだが、それでもやはりFに言わせれば、ここでいかに「身体」が純粋化・抽象化されようともそれは「日本人」であることを免れないのだ。それは「表象」の問題に過ぎない、ともいえる。しかし人は本当に表象から逃げられるだろうか?そう考えて思い出したが、ぼくはいつも外国へ行くと街に住んでいるスズメとかハト、魚市場に並んでいる魚を見るのが好きで、その時に意識のどこかで、こうした見慣れぬ鳥や魚を「ガイジン」みたいに思っている気がする。マレーシアではいうまでもなく中国系とマレー系との間に経済格差や政治的なヒエラルヒーがある。その現実は日常の中で常に意識されていて、これをスルーして何か表現行為を行うなどということは到底考えられないという。しかし差異について考えることと、アイデンティティについて考えることは同じだろうかとも思う。むしろ身体はアイデンティティ(同一性)という観念そのものを裏切ってしまうものであり、身体と、仮構された文化的・政治的アイデンティティの連関を自明化するイデオロギーの作用こそ芸術家のターゲットであるべきではないか。それこそ役柄と決して対応しない、チェルフィッチュの俳優の身体のように、と言ったところでまた、横浜からやって来たチェルフィッチュに反発する関西の観客のことを思い出したりして、話は全然まとまらなかった。