最近テレビで、オーストラリアで子供がアルパカの子供とぶつかり合ってラグビーのタックルの稽古をしているとかいうどうでもいいニュース(?)が流れているが、その十数秒の映像の中に、この仔アルパカがはしゃいで駆けながらジャンプしたところ空中でバランスを崩して右斜め後方によろめいてしまう瞬間がある。これは本当に魅力的な動きであって、ここが見たいがために、色々な局でこのニュースをやる度につい見てしまう。このアルパカは走る勢いを駆って跳ね上がってみたものの、その推力に対して、長い首が重みで横へ逸れていってしまい、それに全身が引きずられかかるのを胴のバネで強引にリカヴァリーするということをしている。要するに発達過程の体型のアンバランスさということだけれども、それは同時に、まだ自分の体に慣れていない、使いこなせていない状態でもあって、別の言い方をすれば自分の体に対する確かなイメージを獲得できていないということだ。どこがどこまでどうなったら危ない、とかもよくわからないし、何か見通しをもって体を効果的に運用するということもできない。しかしそれにもかかわらず、全く動けない(動かない)でいるのではなくて、むしろその体の不明瞭さ、不安定さにギリギリまで接近して戯れている、あるいは、可能と不可能がせめぎ合うスリルを楽しんでいるように見える。これを見ていて、ちょうどこの仔アルパカの反転した鏡像のようなものとして、先日の室伏鴻を思い出した。
コートを着た冒頭部の後、銀塗りの全裸になった室伏が横臥の体勢でズリズリと移動するあの場面は、2004年の『始原児』の一場面から発展したものではないかと推測するが、見ていて、何をしているのか最初なかなかわからなかった。「水銀」というタイトルが頭に浮かんだ時にようやく、室伏は水銀のイメージに同化しようとしていて、それでここは(「舞踏」的にいって)「立てない」という意味で脚の機能を不能にしているのかなと、一応の解釈が成り立った。しかしそれではあまりにも説明的すぎないかと思いつつも、ともかく室伏が主に上半身と腕、腰を使って移動するのを見ていると、室伏の体は、腰の辺りから分断され、下半身は「不能」という虚構を演じることを強制されている。この脚は、表立っては用いられないけれども、むしろ宙に浮かせるという種類の力は投入されていて、またそれがたまたま床に触れた部分の摩擦を利用するということも行われている。そうでなければ室伏はもっと勢いをつけて体を前に引っ張らなければならないはずだ。この場面の室伏の動きの、異様なまでのもどかしさは、不能性という虚構の演技と、前進すべしという現実の要請、そのどちらにも付けない宙吊り状態から来ている。そして刻々と向きを変えて色々なポジションで宙に浮かせられたりしている両脚が、徐々に軽い痙攣を起こし始めた時、その非作為的な震えは、虚構と現実とに体を引き裂く作為の結果として生じていたものということになる。かくして虚構は現実になった。より正確にいえば、虚構と現実が、別のある新しい現実を作り出した。
『始原児』の時にもちょうど同じことを考えたのだが、こうして人が踊ろうとする時には、「始原」へと、つまり秩序化される前の「器官なき身体」へと、「遡る」というアナクロニスムが生じるのは避けようのないことなのだろう。仔アルパカのように、身体が所与になっていない状態の生き物は、ただ未知の体でスリルを味わえばいい。しかし身体が所与になっている成人は、スリルを味わう以前に、体を未知の存在に変える必要がある。その意味で、室伏の「不能」の脚の痙攣は、ダンスへのウォーミングアップの成功を確かに示していた。しかしそこから先の本番は、最終的にはダンスとしてではなく、イメージと価値の転倒(立てなかった脚が、「立つ」という機能を逸脱して上向きに高くそそり立つ)として処理されるに留まった。圧倒的な身体の力で、目はいつまでも釘付けにされてしまったが(おぞましいものを前に顔は引き攣りながら)、やはり脚が痙攣するに至ったからには、つまり体が未知のものと成り果てたからには、それと挑発的に戯れるダンス=「魅力的な動き」を見せてほしかったというのが本音なのだ。もしこの歩けない脚で歩けば、それは仔アルパカのように無垢な、歩行ならざる歩行であり得たかも知れない、などと想像してしまう。
しかしともかく、このダンス的身体への遡行(アナクロニスム)が、虚構(イメージ)を介して達成されるというところには何か本質的な事柄が潜んでいるような気がする。