ジャカルタではまた新しく日本のダンスを文脈化するエッセイを書き、なかなか反響も大きく、成功といって良さそうな手応えを得た。今回の主題としては日本のダンスをポスト冷戦・ポストバブルの状況の中に位置づけ、グローバルなスペクタクルの経済への抵抗として読解した。文字通りスペクタクルの市場である国際ダンス・フェスのど真ん中で、少なからぬ動揺を引き起こしたと思う。ジャカルタについてはまた後からまとめて書く。
今はNYで、別の原稿が終わらない状態だが、今日は東京で見逃したヤスミン・ゴデールの『ストロベリークリームと火薬』を見ることができた。会場がゴデールの出身高校内にある劇場で、いわばOGの里帰り公演みたいな格好になっているのだった。ポスト・パフォーマンス・トークではきっとその辺の話も出たに違いない。しかし内容的には、近年ダンスにおいても流行している「ドラマトゥルク」の弊害がこの上なくよく現れた作品だと思った。要するにドラマトゥルクというのは(最もダメなケースにおいては)、それ自体では何も語れないようなつまらないダンスでも、それなりの演劇的なフレームで囲って体裁を与えることができてしまうのだ。だいたいワクで体裁が取り繕えるダンスなど家畜も同然である。それだけならまだいいが、この作品における「政治」意識らしきものの陳腐さは、まさにスペクタクルが人々をして凡俗な政治談議に満足を覚えるように仕向け、囲い込む、典型的なパターンだろう。出だしのところでダンサーが白目を剥いている辺りが面白いくらいで、あとはひたすら退屈であった(あるいは百歩譲って、NYで上演してもほとんど意味をなさない作品であった。ましてや東京など)。こんな風に思ったのも、たぶん今日の昼間ずっと図書館で見ていたダンスが豊作だったからで、つまりスティーヴ・パクストンの即興ソロ(無音34分、1978年)にまず打ちのめされ、さらにはマース・カニンガムの振付の面白さに仰け反ってしまっていたのだった。パクストンのソロは、信じがたいレヴェルで体のイメージを固定させることなしに自由自在に動き回っていて、次々と質感をシフトさせながら個々のモチーフを発展させ、あきれるほど止まらない。しなやかな変化、新たな出来事への機知に富んだ対応ぶり、そしてその狙いの鋭さと正確さ。時に不恰好になるのも恐れない、真の意味で自由な、スリリングな不安定感に、ヴィデオながら感動を禁じ得なかった。カニンガムは、正直にいうと今まであまり自覚的に見ていなかったと思う。川久保玲の衣装を使った新宿公演はもう何年前かわからないが、その時はおそらく何も目に見えていなかったのだろう。得てしてケージとの関係とかばかり語られるが、カニンガムの振付は、まさに引っくり返るほど斬新な世界である。空間の分節や体の向きの操作など実に幾何学的なのに、なぜかダンサーの動きは常に滑らかで艶かしく、静止していても微妙にわなないている、震えている(体に活性がある)。しっかりキープされながらも柔軟にしなる体軸。沈み込むプリエの上で大胆に前傾する上体の絶望的なカッコ悪さ(のカッコ良さ)。過剰に床に吸い付く足、粘るリズム。片脚ルルヴェから上に伸び上がる途中でいきなり停止して今度は水平方向へと展開していくなどといった、バランスからバランスへの複雑な移行。「どっこいしょ」とでもいわんばかりに、深く、抉るような動きの立ち上がり。そしてフレーズの切り替わりや停止の一々が放射するジューシーな肉汁。本当にアメリカのダンスは凄い(凄かった)。毎日毎日何時間もヴィデオを見ていて、誰に強制されているわけでもないのに午後のある時間帯には決まって居眠りと闘いながらそうしているところなど他人が見たらバカみたいに違いないが、『トリシャ・ブラウン −思考というモーション』(06、ときのわすれもの)[amazon]の中で、黒沢美香がNYのライブラリーに「襟をただし、出社するように通った」と書いていたのを思い出し、勝手に励まされる。